頼朝との婚姻
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伊豆国の豪族、北条時政の長女。母は未詳だが、北条時子の同母姉妹とみられている。坂井孝一は、真名本『曾我物語』巻五に「鎌倉殿の御台盤所」(政子)の母が曾我兄弟の伯母と書かれていることから、政子の母も宗時・義時を生んだ伊東祐親の娘としている。また、時政の正室とされる牧の方も7人の子女を産んだとされており、彼女よりも前に娶った伊東祐親の娘が時房以前の8人の子女を生んだ可能性があるとしている。兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局、時子など。 伊豆の在庁官人であった時政は、平治の乱で敗れ同地に流されていた源頼朝の監視役であったが、時政が大番役のため在京中の間に政子は頼朝と恋仲になってしまう。 頼朝との婚姻は治承元年(1177年)の頃と推定される。『吾妻鏡』によると時政はこの婚姻には大反対であったという。同書にはこの時のことについて、後年、源義経の愛妾の静御前が頼朝の怒りを受けたときに、頼朝を宥めるべく政子が語った言葉で「暗夜をさ迷い、雨をしのいで貴方の所にまいりました」と述べたと記されている。しかし最終的に時政はこの二人の婚姻を認めた。政子は、まもなく長女・大姫を出産する。時政も2人の結婚を認め、北条氏は頼朝の重要な後援者となる。 なお、軍記物にはこの婚姻についての逸話がいくつか書かれている。 『曽我物語』によると二人の馴れ初めとして、政子の妹(後に頼朝の弟・阿野全成の妻となる阿波局)が日月を掌につかむ奇妙な夢を見た。妹がその夢について政子に話すと、政子はそれは禍をもたらす夢であるので、自分に売るように勧めた。当時、不吉な夢を売ると禍が転嫁するという考え方があった。妹は政子に夢を売り、政子は代わりに小袖を与えた。政子は吉夢と知って妹の夢を買ったのである。吉夢の通りに政子は後に天下を治める頼朝と結ばれたとする「夢買い」をした。 また『源平盛衰記』には次の内容の記載がある。頼朝と政子の関係を知った時政は平家一門への聞こえを恐れ、政子を伊豆目代の山木兼隆と結婚させようとした。山木兼隆は元は流人だったが、平家の一族であり、平家政権の成立とともに目代となり伊豆での平家の代官となっていた。政子は山木の邸へ輿入れさせられようとするが、屋敷を抜け出した政子は山を一つ越え、頼朝の元へ走ったという。二人は伊豆山権現(伊豆山神社)に匿われた。政子が21歳のときである。伊豆山は僧兵の力が強く目代の山木も手を出せなかったという。しかしながら山木兼隆の伊豆配流は治承3年(1179年)の事であり、政子との婚姻話は物語上の創作とみるのが妥当と思われる。 治承4年(1180年)、以仁王が源頼政と平家打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。伊豆の頼朝にも以仁王の令旨が届けられたが、慎重な頼朝は即座には応じなかった。しかし計画が露見して以仁王が敗死したことにより、頼朝にも危機が迫り挙兵せざるを得なくなった。頼朝は目代・山木兼隆の邸を襲撃してこれを討ち取るが、続く石橋山の戦いで惨敗する。この戦いで政子の長兄・北条宗時が討死している。政子は伊豆山に留まり、頼朝の安否を心配して不安の日々を送ることになった。 頼朝は北条時政、義時とともに安房国に逃れて再挙し、東国の武士たちは続々と頼朝の元に参じ、数万騎の大軍に膨れ上がり、源氏ゆかりの地である鎌倉に入り居を定めた。政子も鎌倉に移り住んだ。頼朝は富士川の戦いで勝利し、各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧した。頼朝は東国の主となり鎌倉殿と呼ばれ、政子は御台所と呼ばれるようになった。
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