頼時討死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 00:42 UTC 版)
戦役の再開により、当初頼義の後任として予定されていた藤原良綱は、戦時となった任国地へ赴くのを恐れ逃亡してしまった為、頼義の陸奥守重任が決定された。陸奥守に再任した頼義は一進一退の戦況を打開するために、天喜5年(1057年)5月、配下の俘囚である金為時に命じて頼時の従兄弟といわれる津軽の俘囚長・安倍富忠を味方に引き入れ、安倍軍に対して攻勢を仕掛けた。一族からの離反者に慌てた頼時は、7月に富忠を説得しに自ら津軽へ向かうものの富忠勢の伏兵に遭い重傷を負い撤退、鳥海柵にてそのまま陣没してしまった。9月に頼義は朝廷に対し「私は諜略を以て金為時や安倍富忠などの俘囚を味方に引き入れ官軍の列に加えました。これを聞きつけた賊魁の頼時は富忠を引き留めようと説得を試みましたが、却って富忠の伏兵に遭い流れ矢に当たってそのまま死亡しました。しかしながら安倍軍は首領を喪ったにも拘らず未だ降伏の気配がありません。この上は官符を賜り、官軍の増援と兵糧を頂戴したく思います」との頼時戦死の報告書を送ったが、朝廷からの論功の音沙汰は無く、また安倍軍の方も頼時の跡を継いだ貞任が前にも増して気勢を上げるなど状況は官軍に好転しなかった。
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