頼時戦死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 08:37 UTC 版)
天喜5年(1057年)5月、頼義は一進一退の戦況打開のために、安倍氏挟撃策を講じ、配下の気仙郡司・金為時を使者として、安倍富忠ら津軽の俘囚を調略し、味方に引き入れることに成功した。これに慌てた頼時は、7月に富忠らを思いとどまらせようと自ら津軽に向かうが、富忠の伏兵に攻撃を受け、深手を負って本営の衣川を目前に鳥海柵(胆沢郡金ケ崎町)にて死去した。頼時の跡を継いだのは貞任であった。
※この「頼時戦死」の解説は、「前九年の役」の解説の一部です。
「頼時戦死」を含む「前九年の役」の記事については、「前九年の役」の概要を参照ください。
- 頼時戦死のページへのリンク