黄海の戦い
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黄海の戦い | |
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戦争:前九年の役 | |
年月日:1057年(天喜5年)11月 | |
場所:陸奥国・黄海 | |
結果:安倍氏側の勝利 | |
交戦勢力 | |
安倍氏 | 朝廷 |
指導者・指揮官 | |
安倍貞任 安倍宗任 藤原経清 |
![]() ![]() 佐伯経範 † 藤原景季 † 和気致輔 † 紀為清 † 平国妙 |
戦力 | |
4,000 | 1,800 |
黄海の戦い(きのみのたたかい)は、1057年(天喜5年)11月に陸奥国・黄海で行われた前九年の役における合戦である。
概要
安倍氏の俘囚長であった安倍頼時が1057年(天喜5年)7月に戦死して、安倍貞任が後を継いだ。
同年11月、陸奥守・源頼義は多賀城の国府軍1,800を率いて安倍氏を討つべく出陣したが、厳しい雪の中で行軍は難航し、食糧にも不自由する有様であった。一方の安倍軍は国府軍の進軍路を完全に把握し、地の利も生かして優位に立った。
両軍の戦いは安倍軍が圧勝し、国府軍は数百の戦死者を出した。30年来の家臣の佐伯経範を初めとして有力な家人が討ち取られるなど頼義は壊滅的な敗北を喫し、自身も息子の源義家を含む供回り6騎で命からがら安倍軍の追跡から逃れた。
この戦いの後暫くは国府を凌いで安倍氏が奥六郡の実権を握ることとなった。
関連項目
黄海の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 00:42 UTC 版)
詳細は「黄海の戦い」を参照 頼時討伐の勲功が出ないまま、同年11月に頼義は貞任を討つために兵1800程を率いて安倍軍の籠る河崎柵へ進軍した。対する貞任は精兵4000を率いて黄海(きのみ)にて迎撃を試みた(黄海の戦い)。慣れない土地柄の上、折からの風雪と慢性的な兵糧不足に悩まされていた官軍は、兵力でも大きく劣っていた為に安倍軍に散々に打ち破られ死者数百人を出す大敗を喫した。将軍・頼義もあわやという状況まで追い込まれたが、頼義の嫡男である義家の活躍で九死に一生を得たとされる。この時の義家の活躍ぶりは「矢を放てば必ず敵を射殺したため、安倍軍も懼れて散り散りに逃亡した(『陸奥話記』)」程であったという。嫡子・義家の獅子奮迅の活躍で窮地を脱したものの敗走する頼義に従うものは義家を含め藤原景通、大宅光任、清原貞広、藤原範季、藤原則明の僅か6騎で、30年来の忠臣であった佐伯経範をはじめとして、藤原景季、和気致輔、紀為清などの多くの家人をこの戦いで失う大打撃を受けた。なお、将軍の頼義も討死したとの噂も立つほどで、家人の藤原茂頼は「将軍討死」の報を受けて大いに悲しみ、出家して頼義の遺体を探す最中に生存していた頼義と再会している。
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