黄海の戦い
黄海の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 00:42 UTC 版)
詳細は「黄海の戦い」を参照 頼時討伐の勲功が出ないまま、同年11月に頼義は貞任を討つために兵1800程を率いて安倍軍の籠る河崎柵へ進軍した。対する貞任は精兵4000を率いて黄海(きのみ)にて迎撃を試みた(黄海の戦い)。慣れない土地柄の上、折からの風雪と慢性的な兵糧不足に悩まされていた官軍は、兵力でも大きく劣っていた為に安倍軍に散々に打ち破られ死者数百人を出す大敗を喫した。将軍・頼義もあわやという状況まで追い込まれたが、頼義の嫡男である義家の活躍で九死に一生を得たとされる。この時の義家の活躍ぶりは「矢を放てば必ず敵を射殺したため、安倍軍も懼れて散り散りに逃亡した(『陸奥話記』)」程であったという。嫡子・義家の獅子奮迅の活躍で窮地を脱したものの敗走する頼義に従うものは義家を含め藤原景通、大宅光任、清原貞広、藤原範季、藤原則明の僅か6騎で、30年来の忠臣であった佐伯経範をはじめとして、藤原景季、和気致輔、紀為清などの多くの家人をこの戦いで失う大打撃を受けた。なお、将軍の頼義も討死したとの噂も立つほどで、家人の藤原茂頼は「将軍討死」の報を受けて大いに悲しみ、出家して頼義の遺体を探す最中に生存していた頼義と再会している。
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黄海の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 08:37 UTC 版)
詳細は「黄海の戦い」を参照 頼義は同年9月朝廷に頼時戦死を報告するも、論功行賞を受けることができなかった。11月、頼義は再び陸奥国府(現在の宮城県多賀城市)から出撃した。この時の頼義の兵力は最大に見積もっても国衙の兵2,000名程度と、傘下の武士500名ほどであったと推測されている。 安倍軍は河崎柵(現在の一関市川崎村域)に4000名ほどの兵力を集め、黄海(きのみ、現在の一関市藤沢町黄海)で国府軍と激突した。冬期の遠征で疲弊し、補給物資も乏しかった上に兵力でも劣っていた国府軍に安倍軍は大勝。国府軍は佐伯経範、藤原景季らが戦死し、頼義自身は長男の義家を含む七騎でからくも戦線を離脱した。
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