黄海の戦いとは? わかりやすく解説

黄海の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/08/28 07:31 UTC 版)

黄海の戦い
戦争:前九年の役
年月日1057年天喜5年)11月
場所陸奥国・黄海
結果安倍氏側の勝利
交戦勢力
安倍氏 朝廷
指導者・指揮官
安倍貞任
安倍宗任
藤原経清
源頼義
源義家
佐伯経範 
藤原景季 
和気致輔 
紀為清 
平国妙
戦力
4,000 1,800
前九年の役

黄海の戦い(きのみのたたかい)は、1057年天喜5年)11月陸奥国・黄海で行われた前九年の役における合戦である。

概要

安倍氏俘囚長であった安倍頼時1057年天喜5年)7月に戦死して、安倍貞任が後を継いだ。

同年11月、陸奥守源頼義多賀城の国府軍1,800を率いて安倍氏を討つべく出陣したが、厳しい雪の中で行軍は難航し、食糧にも不自由する有様であった。一方の安倍軍は国府軍の進軍路を完全に把握し、地の利も生かして優位に立った。

両軍の戦いは安倍軍が圧勝し、国府軍は数百の戦死者を出した。30年来の家臣の佐伯経範を初めとして有力な家人が討ち取られるなど頼義は壊滅的な敗北を喫し、自身も息子の源義家を含む供回り6騎で命からがら安倍軍の追跡から逃れた。

この戦いの後暫くは国府を凌いで安倍氏が奥六郡の実権を握ることとなった。

関連項目


黄海の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 00:42 UTC 版)

源頼義」の記事における「黄海の戦い」の解説

詳細は「黄海の戦い」を参照 頼時討伐勲功出ないまま、同年11月に頼義は貞任を討つために兵1800程を率いて安倍軍の籠る河崎柵へ進軍した対す貞任精兵4000率いて黄海(きのみ)にて迎撃試みた(黄海の戦い)。慣れない土地柄の上折から風雪慢性的な兵糧不足に悩まされていた官軍は、兵力でも大きく劣っていた為に安倍軍に散々に打ち破られ死者数百人を出す大敗喫した将軍・頼義もあわやという状況まで追い込まれたが、頼義の嫡男である義家活躍九死に一生得たとされる。この時の義家活躍ぶりは「矢を放てば必ず敵を射殺したため、安倍軍も懼れ散り散りに逃亡した(『陸奥話記』)」程であったという。嫡子義家獅子奮迅の活躍窮地脱したものの敗走する頼義に従うものは義家含め藤原景通大宅光任、清原貞広、藤原範季藤原則明の僅か6騎で、30年来の忠臣であった佐伯経範はじめとして藤原景季和気致輔、紀為清などの多く家人をこの戦いで失う大打撃受けた。なお、将軍の頼義も討死したとの噂も立つほどで、家人藤原茂頼は「将軍討死」の報を受けて大い悲しみ出家して頼義の遺体探す最中生存していた頼義と再会している。

※この「黄海の戦い」の解説は、「源頼義」の解説の一部です。
「黄海の戦い」を含む「源頼義」の記事については、「源頼義」の概要を参照ください。

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