北朝公家からの評価
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連歌を完成した中世最大の文人であり、北朝において摂政・関白・太政大臣として位人臣を極めたどころか、准三宮として皇后らに准ずる地位にまで上った二条良基は、敵対派閥でありながら、生涯に渡り後醍醐天皇を尊敬し続けた。これは、『建武年中行事』を著した有職故実研究の大家・朝儀復興者としての後醍醐天皇を評価したものであるという。 中院通冬(極官は北朝大納言)は、後醍醐天皇崩御の速報を聞くと、「信用するに足らず」と半信半疑の念を示した(『中院一品記』延元4年8月19日条)。その後、室町幕府・北朝から公式な訃報を伝えられると、「天下の一大事であり、言葉を失う事件である。この後、公家が衰微することはどうしようもない。本当に悲しい。あらゆる物事の再興は、ひとえに後醍醐天皇陛下の御代にあった。陛下の賢才は、過去[の帝たち]よりも遥かに高く抜きん出たものであった。いったい、[陛下の崩御を]嘆き悲しまない者がいるであろうか」と評した(『中院一品記』延元4年8月28日条)。 また、歴史物語『増鏡』(14世紀半ば)の作者も、北朝の有力廷臣であるにも関わらず、後醍醐天皇を賛美した。その正体は、前述した二条良基とする説が比較的有力である他、和田英松による二条為明説や、田中隆裕による洞院公賢説 など、諸説ある。 一方、三条公忠(極官は北朝内大臣)は後醍醐天皇に批判的であり、「後醍醐院のなさった行いは、この一件(家格の低い吉田定房の内大臣登用)に限らず、毎事常軌を逸している(毎度物狂(ぶっきょう)の沙汰等なり)、どうして後世が先例として従おうか」と評した(『後愚昧記』応安3年(1370年)3月16日条)。 なお、北朝に対しては8月19日に南北両朝と関係のあった興福寺(大乗院・一乗院)から、室町幕府経由で奏聞があった。北朝では、後伏見法皇が崩御されたときに当時の後醍醐天皇が廃朝を行った例はあったものの、崇徳・安徳・後鳥羽・土御門・順徳など遠方で崩御した天皇のために諒闇を行った例はないということを理由に当初は何も行わない方針であった。『師守記 』の暦応二年八月十九日条でも、光厳院とその周辺においては、後醍醐を崇徳以下の配流された天皇と同様に考えていたことがわかる。しかし、室町幕府は直ちに7日間の雑訴停止を決めた上に、朝廷に対しても廃朝を行うように武家執奏を行った。また、後醍醐天皇は光明天皇の外祖父にあたるという論もあり、最終的には四条隆蔭を上卿として廃朝・固関を行い、光明天皇は錫紵を着て外祖父に対する服喪を行った。この時の幕府の申し入れに対し、公家側は強い不満を抱いた。
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