北朝公家からの評価とは? わかりやすく解説

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北朝公家からの評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)

後醍醐天皇」の記事における「北朝公家からの評価」の解説

連歌完成した中世最大文人であり、北朝において摂政関白太政大臣として位人臣極めたどころか准三宮として皇后らに准ずる地位にまで上った二条良基は、敵対派閥ありながら生涯渡り後醍醐天皇尊敬し続けた。これは、『建武年中行事』を著した有職故実研究大家朝儀復興者としての後醍醐天皇評価したのであるという。 中院通冬極官北朝大納言)は、後醍醐天皇崩御速報聞くと、「信用する足らず」と半信半疑の念を示した(『中院一品記』延元4年8月19日条)。その後室町幕府北朝から公式な訃報伝えられると、「天下一大事であり、言葉を失う事件である。この後公家衰微することはどうしようもない本当に悲しい。あらゆる物事再興は、ひとえに後醍醐天皇陛下御代にあった陛下賢才は、過去[の帝たち]よりも遥かに高く抜きん出たものであった。いったい、[陛下崩御を]嘆き悲しまない者がいるであろうか」と評した(『中院一品記』延元4年8月28日条)。 また、歴史物語増鏡』(14世紀半ば)の作者も、北朝の有力廷臣であるにも関わらず後醍醐天皇賛美した。その正体は、前述した二条良基とする説が比較的有力である他、和田英松による二条為明説や、田中隆裕による洞院公賢説 など、諸説ある。 一方三条公忠極官北朝内大臣)は後醍醐天皇批判的であり、「後醍醐院のなさった行いは、この一件家格の低い吉田定房内大臣登用)に限らず、毎事常軌を逸している毎度物狂ぶっきょう)の沙汰等なり)、どうして後世先例として従おうか」と評した(『後愚昧記応安3年1370年3月16日条)。 なお、北朝に対して8月19日南北両朝と関係のあった興福寺大乗院一乗院)から、室町幕府経由奏聞があった。北朝では、後伏見法皇崩御されたときに当時後醍醐天皇廃朝行った例はあったものの、崇徳安徳後鳥羽土御門順徳など遠方崩御し天皇のために諒闇行った例はないということ理由当初は何も行わない方針であった。『師守記 』の暦応二年八月十九日でも、光厳院その周辺においては後醍醐崇徳以下の配流された天皇同様に考えていたことがわかる。しかし、室町幕府直ち7日間雑訴停止決めた上に、朝廷に対して廃朝を行うように武家執奏行ったまた、後醍醐天皇光明天皇外祖父にあたるという論もあり、最終的に四条隆蔭上卿として廃朝固関行い光明天皇錫紵着て外祖父対す服喪行った。この時の幕府申し入れ対し公家側は強い不満を抱いた

※この「北朝公家からの評価」の解説は、「後醍醐天皇」の解説の一部です。
「北朝公家からの評価」を含む「後醍醐天皇」の記事については、「後醍醐天皇」の概要を参照ください。

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