朝儀復興者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)
「建武年中行事」も参照 鎌倉時代後期、徳政という思想が普及し、悪しき政治は天変地異に繋がると考えられたため(天人相関説)、為政者たちは善政に励み、天災を防ごうとした。徳政の最も重大な事項は訴訟制度改革であるが、それに次いで、朝儀(古代の朝廷儀礼)を復興させることも重要な課題と考えられていた。後醍醐天皇は特に延喜・天暦の治(10世紀の醍醐・村上両帝の治世)を復興すべき徳政・朝儀の理想像とした。朝儀復興者としての後醍醐は、鎌倉時代末期の世人に「聖代」と仰がれ(『後伏見天皇事書』)、南北朝時代には北朝の准三宮二条良基からも敬意を払われた。 後醍醐天皇は特に朝儀の研究面において、有職故実に精通し、自ら『建武年中行事』という書を著して、朝廷の権威高揚を図った。この書籍は、行事の起源などの逸話は省略され、いつどのように実行するかという次第が書かれた実践書となっており、酒井信彦は、建武の新政下での儀礼執行への手引書として実践目的で書かれたものではないかと推測している。「未来の先例たるべし」という新政の意気込みと対照的に、こちらの序文では「まあ後世の鑑(手本)というほどのものではないにしても、ひょっとしたら、この時代にはこんなことがあったのだなあと、〔後の世の人たちにとって〕何かの参考にはなるかもしれない」と述べている。 『建武年中行事』は宮中で高く評価された。後花園天皇(在位1428年 - 1464年)はこれを書写して註釈をつけ、廃れていた行事をこの書に倣って復興するよう、息子の後土御門天皇(在位1464年 - 1500年)に薦めた。のち自身も『後水尾院年中行事』を著した後水尾天皇(在位1611年 - 1629年)も、同書を順徳天皇の『禁秘抄』と並ぶ宝典とし、後世まで残る鑑だと称賛した。 また、後醍醐天皇は建武の新政下で大内裏造営を計画したが、甲斐玄洋は、これはただの権力誇示ではなく、「聖代の政務の場」を復興させることで、徳政を目指したのではないかと主張している。しかしその反面、大内裏造営計画は重税にも繋がることになった。公卿・鎮守府大将軍の北畠顕家(北畠親房の長男)は、『北畠顕家上奏文』(延元3年/暦応元年(1338年))で重税を諌めたが、これは一般に大内裏造営への批判も含まれていると考えられている。亀田俊和は、造営計画自体は間違いとは思わないが、元弘の乱による疲弊が回復しきっていない時期に行ったという点が問題であると指摘した。 後醍醐天皇は、建武の新政の後期には、綸旨(天皇の私的な命令文)の代わりに、太政官(律令制の最高機関)の正式な公文書である太政官符を多く発給した。甲斐は太政官符発給は朝儀復興の一環であり、公家徳政を志す後醍醐天皇の政治構想に沿ったものであると主張した。
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