北有社の経営請負
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幌内鉄道の経営は、決して順調ではなかった。1880年(明治13年)から1885年(明治18年)までの6年度のうち、収益のあったのはわずか2年度のみで、札幌 - 幌内間開業後の営業係数は200近いという有様であった。これには、石炭の輸送は無賃であったというのが大きく影響している。1886年(明治19年)1月26日、鉄道と炭鉱は工部省から北海道庁に移管された。北海道庁は開拓使や工部省のような潤沢な予算を持たなかったため、翌1887年(明治20年)4月、炭砿鉄道事務所を廃止して炭鉱と鉄道を分離し、北海道鉄道事務所とした。それに伴い事務所を札幌から手宮に移している。 同年12月、4月まで炭砿鉄道事務所長の職にあった村田堤から、幌内鉄道の運営を請け負い、未成線となっていた幾春別線を開業させたいとの出願があった。村田は、黒田の腹心の一人である。これは欠損続きの幌内鉄道を村田に引受けさせようとしたのか、村田が自ら出願したのかは不明であるが、北海道庁長官の上申書には、「石炭の販路が拡大したため、幌内の石炭だけでは足りなくなったので、未成線の幾春別線を建設して幾春別炭鉱を開発したいのだが、鉄道の欠損によりその費用を出すのは不可能である。しかし、これを民間に請け負わせれば事務も簡素化されて収支は償い、賃貸料を有益な事業に活用できる。」旨が記されている。 1888年(明治21年)3月、北海道庁は村田の出願を認可し、村田は北有社(ほくゆうしゃ)という団体を設立して幌内鉄道の運営を請け負うこととなった。請負期間は、1888年(明治21年)4月1日から15年間とされ、年間の借料は5,000円とされた。北有社は設備の保守料を負担し、運賃や運転回数は北海道庁の定めた運行規程によることとした。これにより業績は回復し、1888年(明治21年)度の営業係数は70程度となった。 幌内太(後の三笠) - 幾春別間は、1886年(明治19年)5月に着工していたものの、石炭価格の低下により工事は中断されていたが、村田は請負直後の1888年(明治21年)5月に工事を再開し、同年12月10日に開業させた。同線は建設費を節約したため、起伏の多い急勾配の介在する線形となった。 1889年(明治22年)12月11日、北有社が私鉄の北海道炭礦鉄道に事業譲渡し、官営幌内鉄道は消滅。手宮 - 幌内間および幌内太 - 幾春別間鉄道路線は北海道炭礦鉄道に移管され、同社の幌内線となった。
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