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後亀山天皇

(後亀山 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/27 13:28 UTC 版)

後亀山天皇(ごかめやまてんのう、旧字体: 後龜山天皇1350年正平5年〉[1] - 1424年5月10日応永31年4月12日〉)は、日本の第99代天皇、および南朝第4代天皇(在位:1383年弘和3年/永徳3年〉冬 - 1392年11月19日元中9年/明徳3年閏10月5日〉)。熙成(ひろなり[2])。


  1. ^ a b c 醍醐地蔵院日記(観応二年日次記)』1351年観応2年)4月3日条の「皇子御年二歳」、『園太暦1352年(観応3年)5月25日条の「三歳皇子」を後亀山天皇と見なす説に従えば、逆算して1350年(正平5年/観応元年)の誕生であり、享年 75 となる。一方、『南朝編年記略』は1347年6月20日正平2年5月11日)誕生、享年78とする。
  2. ^ 1408年応永15年)書写の「人王百代具名記」(『常福寺文書』日本書紀私鈔)による。ただし、谷森善臣『帝皇略譜』(1851年)や飯田忠彦編『系図纂要』、高橋光正編『歴朝聖徳録』(同文館、1899年)が「のりなり」、比企修 『皇陵新志』(皇國青年教育協会、1943年)が「よしなり」とするように、独自の訓を付している文献も見られる。
  3. ^ a b 嘉喜門院集』に、正平23年8月のこととして同女院と春宮との贈答歌がある。なお、このことは天皇の母を嘉喜門院と推定する根拠にも挙げられている。
  4. ^ 高野山丹生社に奉納された元中2年(1385年)9月10日付の「長慶天皇宸筆願文」中に見える「今度雌雄」の文言は、兄弟間の確執を示すとも言われている。
  5. ^ 『足利治乱記』には、後亀山・後小松両天皇が会見して神器の引き渡しが行われたように記されているが、大正時代に三浦周行が『日本史の研究』の中で、『南山御出次第』『御神楽雑記』など、当時の次第を記した史料には神器還御の手続しか見えないことを指摘して、両天皇の会見を根拠のない俗説であると結論付けている。
  6. ^ 吉田家日次記』応永9年3月20日条。
  7. ^ 『経嗣公記』明徳5年2月22日条。記主一条経嗣はこの尊号贈進について、「希代の珍事なり。後醍醐天皇の皇胤絶つべからざるか」(同月23日条)と評した。
  8. ^ 宮内庁書陵部蔵の吹上本『帝王系図』の巻末付紙による。このことを最初に指摘した村田正志は、「或はさきの実為女が師基猶子となられたものか。さすれば後亀山天皇の御母は嘉喜門院となるわけである」と憶測する(「後亀山天皇の御事蹟」 『村田正志著作集 第1巻 増補南北朝史論』思文閣出版、1983年。初出は1946年)。
  9. ^ 大日本史』巻85(列伝12后妃)には、『嘉喜門院集』を根拠に阿佐殿(あさどの)と呼ばれる人物を後亀山天皇の中宮として挙げているが、その実は長慶天皇の中宮に関する伝記である。「阿佐殿」の呼称は、同集の詞書に見える「女御殿」の草体を「安佐殿」と誤認したことによるものらしい(谷森善臣 『嘉喜門院御歌巻証註』)。
  10. ^ 系図纂要 第1冊下』【復刻新装版】(名著出版、1996年、ISBN 4626015425)の「良泰親王」に「母中宮源信子 右大臣顕信公女」と記載されている。また、日置昌一『日本系譜綜覧』【復刻版】(講談社、1990年、ISBN 9784061583221)の「皇后中宮一覧」、後亀山天皇の欄にも「源信子(父未詳)」とある。


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