後醍醐天皇の倒幕運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:30 UTC 版)
詳細は「正中の変」および「元弘の乱」を参照 一方、時宗が朝廷へ介入したことによって分裂した皇室の持明院統・大覚寺統は、さらに大覚寺統内で嫡流の邦良親王(後二条天皇の嫡男)派ともうひとつの後醍醐天皇派に分かれて対立していた。そして、朝廷の各派はこれらの争いの調停を幕府に求めたため、幕府は朝廷内の争いに巻き込まれていくことになった。 文保2年(1318年)、後醍醐天皇が即位し、元亨元年12月9日(1321年12月28日)に後宇多上皇から政務の移譲を受け、親政を開始する。 元亨4年9月19日(1324年10月7日)、後醍醐天皇は倒幕計画を疑われ、関係者として土岐頼有(土岐頼兼の子)と多治見国長らが討たれた(正中の変)。また、腹心の公家である日野資朝と日野俊基が捕らえられた。公式判決では天皇と俊基は冤罪となったが、資朝は有罪とも無罪とも言えないので佐渡島に流刑となった。天皇は実際は倒幕を企んでいたが、幕府が処分に及び腰になったので処分されなかったのだという。この天皇と幕府が対立に至る過程には諸説あり一定しない。詳細は正中の変を参照。 いずれにしても元弘元年(1331年)、後醍醐天皇は倒幕を企てた。これは吉田定房の密告によって事前に発覚し、翌年に天皇は隠岐島へ流された(元弘の乱)。しかし、これを契機に幕府・得宗に不満を持つ楠木正成、赤松則村(円心)など各地の悪党と呼ばれる武士が各地で反幕府の兵を挙げるようになる。 元弘3/正慶2年(1333年)4月、反幕府勢力の討伐のために京都へ派遣された有力御家人の足利高氏(尊氏)は名越高家が久我畷の戦いで戦死したのを見て、一転して後醍醐天皇側へつき、5月7日に六波羅探題を落とした。
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