鎌倉将軍府の成立と瓦解とは? わかりやすく解説

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鎌倉将軍府の成立と瓦解

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/27 20:57 UTC 版)

鎌倉将軍府」の記事における「鎌倉将軍府の成立と瓦解」の解説

源氏所領であった鎌倉は、源頼朝幕府成立させて以来武家政権中心であり、武家社会において象徴的な都市でもあった。 1333年5月上野国御家人新田義貞後醍醐天皇の倒幕運動参加し挙兵する。義貞は同じく倒幕運動参加して京都六波羅探題滅ぼした下野国御家人足利高氏(後の尊氏)の嫡子である千寿王足利義詮)を奉じて兵を集め鎌倉攻めて北条氏一族滅亡させた。幕府滅亡後市政残党狩りなどは新田一族取り仕切ったが、京都高氏一族細川氏派遣し鎌倉統治巡って勢力争いが起こる。義貞は6月上洛し、鎌倉支配足利氏取り仕切ることとなった建武政権では、後醍醐天皇皇子護良親王一時的に征夷大将軍に、足利高氏鎮守府将軍任命され尊氏改名した10月東国支配基盤整えるため、北畠親房北畠顕家親子義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて陸奥下り陸奥将軍府成立12月尊氏の弟である足利直義成良親王奉じて鎌倉下り、ここに鎌倉将軍府成立した陸奥将軍府で顕家が国司として王宣を用いたのに対し鎌倉将軍府直義執権呼ばれ御教書用いた鎌倉将軍府設置については、建武政権本来の構想鎌倉幕府政治的痕跡一掃するために陸奥将軍府政治的機能移して東国武士ここから統率させるものであったが、足利氏などの関東御家人建武政権従った旧鎌倉幕府奉行人がこれに反発して巻き返し結果設置されたものであったとする説がある。このため鎌倉将軍府機能旧幕府侍所職権のみを受け継ぐのみ、雑訴決断所指揮下に置かれるなど極めた弱いものであったとされる引付恩賞に関する機能陸奥将軍府置かれたため)。 1334年11月には、建武政権尊氏対立した護良親王失脚し鎌倉にて幽閉されている。 建武政権急激な改革による混乱に伴い地方では北条氏残党活動していた。1335年7月信濃諏訪頼重らが北条高時遺児である時行を擁して挙兵。時行軍鎌倉向けて進軍し各地鎌倉将軍府軍勢撃破鎌倉から出陣した直義軍も破った直義成良親王らを連れて鎌倉逃れ成良親王京都戻され、ここに将軍府は瓦解した詳細中先代の乱参照)。

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