鎌倉居住から晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 00:49 UTC 版)
1972年7月から神奈川県鎌倉市手広の鎌倉飯店店主宅の一角に住む。1973年には第二歌集『右左口』を刊行する。1974年(昭和49年)には「めし」15首(『短歌』1974年9月掲載)により第一回『短歌』愛読者賞を受賞する。1978年(昭和53年)には玉城徹により『うた』が創刊され、方代は創刊号から投稿している。1980年(昭和55年)11月には第三歌集『こおろぎ』を刊行した。方代はこの頃随筆も手掛け、1981年(昭和56年)には随筆集『青じその花』を刊行している。 1984年(昭和59年)11月には山梨県東山梨郡牧丘町(現・山梨市牧丘町)を訪れ、最後の山梨旅行となる。同年12月には肺がんと診断され、1985年(昭和60年)1月に入院する。手術を受け入院生活を送る。入院中には1985年1月11日から同年3月18日まで「山崎方代病床日記」を記している。同年8月19日に国立横浜病院で心不全のため71歳で死去した。通夜・告別式は神奈川県鎌倉市二階堂の瑞泉寺で行われ、本葬は故郷の円楽寺で実施された。戒名は観相院方代無煩居士。 1988年(昭和63年)、親交のあった大下一真らによって研究誌「方代研究」が創刊される。また、1987年には鎌倉で「方代を語り継ぐ会」が発足し、大下らの手によって、毎年9月の第1土曜に瑞泉寺において「方代忌」が営まれている。 特定の結社に属さず、身近な題材を口語短歌で詠んだ。鎌倉に住む歌人吉野秀雄や唐木順三とも交友があり、しばしば土産物を携えて訪ねたという。鎌倉の瑞泉寺住職・大下豊道は吉野秀雄と交流があり、方代は吉野を介して大下豊道とも交流している。関係資料は山梨県甲府市の山梨県立文学館に所蔵されており、常設展でも展示されている。また、生家跡地には中道往還の右左口宿や円楽寺など周辺の歴史的景観と合わせた観光拠点とするため、歌碑の移設や東屋を設置する計画が出されている。
※この「鎌倉居住から晩年」の解説は、「山崎方代」の解説の一部です。
「鎌倉居住から晩年」を含む「山崎方代」の記事については、「山崎方代」の概要を参照ください。
- 鎌倉居住から晩年のページへのリンク