後醍醐天皇の帰依を受ける
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元亨3年(1323年)、後醍醐天皇は勅命を発し、文観を宮廷に参内させた(『瑜伽伝灯鈔』)。師の道順が後醍醐父の後宇多に崇敬された僧であることを考えれば、その高弟である文観が帰依を受けたのは、自然な流れである。 元亨4年(1324年)3月7日、大和国にある真言律宗般若寺(奈良県奈良市)の旧経蔵本尊として、『木造文殊菩薩騎獅像(本堂安置)』(重要文化財)の制作を監修した。大施主(出資者・寄付者)は、鎌倉幕府の高級官僚である伊賀兼光。文観は布施を受ける側であるから、既に天皇から帰依されるのほど真言僧であったにも関わらず、真言律僧としての地位もあり、般若寺に住んでいたとみられる。この般若寺は、かつて開祖の叡尊が長老だったころ、後に次期長老となる信空が住職となっていたこともあるほど、真言律宗の最重要拠点の一つだった。 菩薩像の実制作に当たったのは興福寺大仏師の康俊と小仏師の康成。仏教美術研究者の内田啓一は、鎌倉時代の文殊像の典型的な様式を守りつつも、小鼻の大きさや厚い唇などの一味が加えられており、小気味良く仕上げられている、と高く評価している。 墨書にはまず「法界衆生発菩提心」とあり、全世界のあらゆる人が菩提心(悟りを求め他人を救おうとする心)を発することを第一に願った作品である。その一方で、「金輪聖主御願成就」ともあり、金輪聖主つまり天皇である後醍醐の治世の繁栄も第二の意として願っている。開祖の叡尊にも「聖朝安穏」を掲げたものが多いから、真言律宗の典型的作品と言える。 元亨4年(1324年)6月25日、真言宗の有力庇護者だった後宇多上皇が崩御。続いて同年9月19日から正中2年(1325年)2月9日にかけて、後醍醐天皇は討幕計画を疑われ、鎌倉幕府から取り調べを受けた(『花園天皇宸記』)。しかし、鎌倉幕府の調査の結果、冤罪であると公式に判定が下った(いわゆる正中の変)。
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