後醍醐天皇と鰐淵寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 04:35 UTC 版)
南北朝時代には鰐淵寺の北院と南院は、それぞれが北朝・南朝を支持して対立した。元弘2年、後醍醐天皇が隠岐に流された際、南院の頼源大師が御所に伺候し、宸筆の願文(倒幕の所願を遂げたら薬師堂を造営するというもの)を賜った。この願文は現存し、重要文化財に指定されている。頼源は後醍醐の隠岐脱出を助け、南朝に忠誠を尽くした。 南院・北院が和解したのは貞和3年(1347年)のことで、これを機に寺は唐川から別所に移り、北院の千手観音と南院の薬師如来をともに本尊として安置することになった。
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