イタリア式動力利用型製糸器械の導入まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/24 07:22 UTC 版)
「チェシャーの絹関連産業」の記事における「イタリア式動力利用型製糸器械の導入まで」の解説
チェシャーでは、絹糸を使った仕事は中世後期には行われており、絹糸はボタンの製造に使われていた。マクルズフィールドの町には、1574年にボタンの製造業者から資金を借りたことを記録する文書が残っている。1617年のスティーヴン・ロウ(Stephen Rowe)家の棚卸帳には、次のような記載がある「原材料(すなわち、毛糸、縫い糸、亜麻糸、絹糸)の合計 - 完成したボタンの量 - 全部で4つ - 織工への支払い3ポンド9シリング6ペンス」。スティーヴン・ロウは製造したボタンの販売をチャップマン (行商人)(英語版)(chapman)に委託していたようである。行商人らは村々を回って絹の服やボタンを売り歩いた。彼らの多くは土地持ちで、ロンドンと直接取引をした。ロンドンは、絹が流入することが合法的な唯一の港であった。そのため、ロンドンの商人がマクルズフィールドにやってきて生糸を買い求めた。そのうちの何人かはマクルズフィールドに住み着いて自由身分となった。彼らは合法的にこの町の中で取引することができるようになった。また、売買取引を行う代理人をマクルズフィールドに置くこともあった。 絹加工技術がイングランドに確立されたのは、1685年のフォンテーヌブローの勅令によってフランスを追放されたユグノーによる。彼らは、ロンドンのギルドが決めていた窮屈な掟を避けて、ロンドンの市域外にあるスピタルフィールズに住み、そこで繁栄していた。そうしたところ、さらに、チェシャーには製糸業が興りつつあった。例えば、レイノウ(Rainow)では、ジョン・マッシー(John Massey)という人物が、「黒いウシ1頭、ヒツジ数頭、古びたハシゴ3つ、絹糸を縒り合せる回し車ひとつを所有している」という記録がある。1660年頃には、ストックポート、マクルズフィールド、コングルトン、リーク、バクストンでレースを編む産業が始まり、1696年までにマクルズフィールドで細い絹糸を編む産業が始まった。太い絹糸の製糸が始まったのは John Prout (1829) によると1756年であるという。 チェシャーでは、自営の織工らが自らの所有する織機を彼ら自身の家の中で動かして、絹織物を編んだ。そして、商人が彼らに絹糸を供給し、出来上がった絹布(絹織物)を購入した。このように、チェシャーでは広く、問屋制家内工業の形態で絹織が行われていた。そして、織機と飛び杼の改良と、最終生産品への需要の増大に伴い、原料となる生糸の供給が追い付かなくなってきた。 絹織物を作るには、生糸を撚り合わせて所望の太さ・強度にする撚糸工程が必要である。この工程は本来屋外で行うものであって、影が長いときに行うものであった。しかしながら、この工程が23メートルの高さの建物の中で行われるときも「シェイズ(影)」と呼ばれるようになった。また、イタリアでは、この工程が機械化された。 ダービーにあるロウムズ・ミルは、イングランドにおける最初の動力を用いた製糸工場(ミル)の成功例である。1685年生まれのジョン・ロウムは、1717年にピエモンテを訪れ、うまく稼働している製糸工場を視察した。イングランドに戻り、フィラトイオ(filatoio)とトルチトイオ(torcitoio)という名前で知られていた2つのイタリアの製糸器械の詳細構造を伝えた。と同時に、数人のイタリアの職人を連れて帰り、製糸器械のレプリカを作ってもらった。これは、産業スパイの初期の例である。1704年にロウムの異父兄、トーマス・コチェットがオランダの製糸器械を模して作った器械を備えたミルを、ダーウェント川の堰堤の西に建てたが失敗していた。コチェットとロウムは、建築技師のジョージ・ソロコールド(英語版)にイタリア式の製糸器械のための製糸工場(ミル)の建て方を伝え、かつて失敗した製糸工場の隣に新しく工場を建てた。そのイタリア式器械を導入した製糸工場の北に、動力を用いない撚糸工場が1739年より前のいつ頃かに建設されたが、この工場は1739年にトーマス・ウィルソンに棚卸資産ごと売却されて、現存している。トーマス・ロウムの使用している製糸器械の意匠には14年間の特許が、ロウムに対して与えられた。サルディニア王はロウムの試みに反発し、質の良い生糸の輸出を差し止めた。ジョン・ロウムは、この6年後の1722年に謎めいた死を遂げるが、これにサルディニア王が何らかの関与をしたのではないかと推測されている。ジョンの事業は兄のトーマス・ロウムが引き継いだ。 1732年に特許の効力がなくなると、同年にストックポート、1744年にマクルズフィールド、1753年にコングルトンで、同様のイタリア式製糸器械工場が建ち、チェシャーにイタリア式製糸の時代が本格的に到来した。
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