コングルトン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/24 07:22 UTC 版)
「チェシャーの絹関連産業」の記事における「コングルトン」の解説
チェシャー州には、1780年以前に7つの絹関連工場があった。そのうちの2つがデイン川に面したコングルトンにあった。その2つ、クレイトン絹工場とパッティソン絹工場(Clayton and Pattinson's silk mill)、別名オールド・ミル(the Old Mill)は、1773年に建造され、2003年に最終的に解体された。これは5層29倉のミルであり、内部に水揚げ車を通すための縦穴があった。1822年にはYatesにより次のように描写されている。 コングルトンにおいて最大でひときわ異彩を放つ建物である最初の製糸工場は、レンガ造りの切妻壁で、中央に時計の文字盤がある。長辺の長さ240フィート、短辺の長さ24フィート、高さは48フィートで5階建て、390か所の窓から採光している。 地上階には、上方に糸撚り機を備えた環状の繰糸機が11台設置されていた。1771年には600人が同工場に雇われており、1830年にはさらに17倉が拡張された。 当地で2か所目となるミルは、トーマス・スレイトのデイン・ミル(Thomas Slate's Dane Mill)であった。1811年の競売注意書きには次のように記載されている。 (デイン・ミルは)4階建て、各階縦84ft横27ft。高さは地上階11ft、第1エンジン室7ft 2in、第2エンジン室7ft 4in、最上階の合糸機室8ft。建築部品の状態良好、機織り室として使われていた増設部屋2部屋付。 あるコヴェントリーの商人が、リークとコングルトンの機織り業者のところにリボンの製造を委託したと報告した1754年に、リボン製造が始まった。1780年代には4つの小規模な会社がスワン・バンクとロートン通りで操業していた。1784年時点ではマーティン家により綿糸の製造(綿をほぐして紡ぐ工程)も始まっていた。染色や捺染業も、絹製品と綿製品の両方ですぐに始まったと考えられ、ウィリアム・スレイト(William Slate)は自分自身のことを絹糸及び綿糸製造者と記している。ジョージ・リード(George Reade)は綿紡績業者であったが、製糸業に乗り換えた。ヴォードリー家は両方に携わった。コングルトンの繁栄を決定づけたのはシルクであった。しかしながら、海外製品との競争や輸入の規制といった外的要因も決定的ではあった。コブデン=シュヴァリエ協定(英語版)が結ばれたことにより、コングルトンの産業は衰退した。 1860年から1950年までの間、コングルトンにおける主要産業はファスチアン織り(英語版)であり、使われていなかった紡績工場と製糸工場がファスチアン織りのために転用された。1930年代から1970年代には(ファスチアン織りにおける)毛羽を輪状にして仕上げる工程が重要であった。1858年に設立されたベリスフォード・リボン社(Berisfords ribbons)は、ヴィクトリア・ミル(Victoria Mill)の標章を付した製品を生産し続け、ワーオール通り(Worrall Street)にて21世紀現在に至っている。
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