第三次イタリア独立戦争とは? わかりやすく解説

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第三次イタリア独立戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 08:39 UTC 版)

イタリア統一運動」の記事における「第三次イタリア独立戦争」の解説

詳細は「第三次イタリア独立戦争(イタリア語版フランス語版英語版)」を参照普墺戦争」も参照 1866年6月ドイツ主導権めぐって争っていたオーストリアとプロイセン開戦した普墺戦争)。オーストリア支配していたヴェネト地方奪取する好機考えたイタリアプロイセン同盟結んだオーストリア中立見返りヴェネト地方譲渡するイタリア政府説得したものの、4月8日プロイセンイタリアヴェネツィア獲得することを支持する協定締結し6月20日イタリアオーストリア宣戦布告をした。この戦争イタリア統一コンテクストの中では第三次イタリア独立戦争と呼ばれるヴィットーリオ・エマヌエーレ2世ヴェネト地方奪取すべく軍を率いて急ぎミンチョ川越え一方ガリバルディアルプス猟兵隊(英語版)を率いてチロル攻め入った。だが、この作戦大失敗終わった6月24日クストーツァの戦い英語版)でイタリア陸軍オーストリア軍敗れた。そして、7月20日にはリッサ海戦イタリア艦隊オーストリア艦隊大敗喫する。もっとも、イタリアは完全に運命見捨てられた訳でもなく、その後ガリバルディ義勇兵たちが、ベッツェッカの戦いオーストリア軍打ち破りトレント進軍している。 一方プロイセン軍優勢に戦い進め事実上決戦となった7月6日ケーニヒグレーツの戦い勝利するプロイセン首相ビスマルク戦争目的は既に達せられたと判断し7月27日オーストリア休戦協定結んだイタリア8月12日に公式に武器置いており、成功裏進軍していたガリバルディ司令部からの撤兵命令対し、「従おう」(Io obbedisco) とだけの短い電文返している。 戦争ではイタリア軍弱さ露呈したものの、北方でのプロイセン軍勝利により、オーストリアヴェネト地方割譲に従わざる得なかった。10月12日締結されウィーン条約条項に基づきオーストリア皇帝は、1859年戦争と時と同じく、まずフランスヴェネト譲渡し次いでフランス先年割譲されたニースサヴォアとの交換として、10月19日ヴェネト地方イタリアへ譲渡したイタリア王国イタリア人土地主張する領土全て割譲された訳ではなく南チロルトレンティーノ)、旧ヴェネツィア共和国領の内のトリエステイストリアなどがオーストリア領に残された。 ウィーン条約ではヴェネト地方帰属住民投票の結果によって決められることになっており、10月21日22日行われた住民投票ヴェネト地方住民圧倒的多数イタリアとの合併選択した。僅か0.01%(有権者647,236人中僅か69人)が併合反対しただけであり、歴史家たちはヴェネチアでの住民投票軍隊圧力の元で行われたことを指摘している。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世ヴェネト地方そしてヴェネツィアの町に入りサン・マルコ寺院参拝した

※この「第三次イタリア独立戦争」の解説は、「イタリア統一運動」の解説の一部です。
「第三次イタリア独立戦争」を含む「イタリア統一運動」の記事については、「イタリア統一運動」の概要を参照ください。

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