第三次アフガン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 11:48 UTC 版)
詳細は「第三次アフガン戦争(英語版)」を参照 イギリスの後ろ盾を得たアブドゥッラフマーンは従兄弟にあたるアイユーブ・ハーンを追って統一を回復すると、アフガニスタンの近代化に乗り出し、その子ハビーブッラー・ハーンもその政策を継承した。 1919年、ハビーブッラーが暗殺され、アマーヌッラー・ハーンが即位を宣言した。アマーヌッラーは第一次世界大戦によってイギリスが疲弊した好機ととらえ、イギリスに対するジハードを唱えて5月3日、カイバル峠の国境に軍を進め、領内のパシュトゥーン人が呼応して反乱を起こすことを恐れたイギリスのインド帝国当局もやむなくこの挑発に乗ってイギリス軍を動員、第三次アフガン戦争が始まった。 5月11日、第1インド歩兵師団は、第1騎兵旅団の支援の下、ハイバル峠のアフガン軍を攻撃し、これを敗走させた。同日、イギリスの航空隊がジェラーラバードを爆撃し、この方面のアフガン軍は完全に士気喪失した。しかし、5月23日、ホスト地区のムハンマド・ナーディル・シャー将軍指揮下の部隊がインド領内に侵入してタリ駅を占領し、イギリス軍2個大隊を包囲した。6月1日、ダウエル将軍の歩兵旅団が反撃に転じ、アフガン軍を撤退させた。 この戦争ではアフガン軍がイギリス領に攻め込む形で始まったが思うように戦果が上がらず、またイギリスが空爆を行ったことやインド帝国側のパシュトゥーン人の支援が満足に得られなかったことから開戦早々に戦線は膠着した。5月末にアフガニスタン側は停戦を申し入れ、戦争の長期化を嫌うイギリスもこれに応じて6月3日に休戦した。 第三次アフガン戦争の結果、アフガニスタンは8月8日に結ばれたラーワルピンディー条約(英語版)で外交権を回復し、完全独立を達成した。 アブドゥッラフマーン・ハーン ハビーブッラー・ハーン アマーヌッラー・ハーン
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