第三次アフリカ探検~アフリカでの死とは? わかりやすく解説

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第三次アフリカ探検~アフリカでの死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 20:37 UTC 版)

デイヴィッド・リヴィングストン」の記事における「第三次アフリカ探検~アフリカでの死」の解説

西側流れ支流白ナイル リヴィングストンボンベイ経由し1866年1月16日ザンジバル(現タンザニア)へ到着した3月22日にはルブーマ川の河口到着4月4日内陸部入っていった。当初各地から集められポーター36人いたが、脱落者が続出し最終的に4、5人しか残らないほどの過酷な旅程だった。マラウィ湖経由しタンガニーカ湖南側目指し北北東進み続けたが、行く先々奴隷商人妨害遭う。かれらに買収されポーターリヴィングストン暗殺されたという虚偽報告行いリヴィングストン医療道具一式入っている鞄を盗んでしまったと言われている。1867年には苦難果てタンガニーカ湖にたどり着きムウェル湖発見し翌年1月18日にはさらにバングウェル湖発見したが、飢餓と体調の悪化苦しみ、一旦タンガニーカ湖畔のウジジへと戻ることとなった1869年7月から1871年10月にかけては、静養行いながら、ウジジ近辺探索を行うことに費やされ宣教説教頻繁に行った1871年3月29日には、ルアラバ川(en:Lualaba)の岸辺で、1,500人もの奴隷虐殺される場に偶然立ち会った。これはリヴィングストン実際に目撃した中では最悪事態であり、奴隷解放のために立ち上がろうしたものの、その力は残っておらず、ウジジ静養余儀なくされていた。 この間イギリス国内では消息絶ち死亡説まで流れているリヴィングストン探索する動き出ていたが、過酷な旅に加えて現地での妨害もあり、失敗続きであった1869年10月、『ニューヨーク・ヘラルド』の経営者であるジェームズ・ゴードン・ベネット・ジュニアは、ヨーロッパ滞在中に特派員1人であるヘンリー・スタンリー電報送り呼び寄せたスタンリーリヴィングストン捜索依頼承諾し莫大な資金提供と、発見成功した際の報奨金約束されたスタンリーはただちに出発したが、他の取材のためパレスチナエジプトインドなどを訪れていたため、ウジジにたどり着いたのは1871年11月10日であったスタンリーウジジ近辺リヴィングストン従者遭遇し従者導かれて本人対面した骸骨のようにやせ衰えた姿を見てスタンリー発したリヴィングストン博士いらっしゃいますか?(Dr. Livingstone, I presume?)」は、のちにイギリス思いがけず人と対面した時の慣用句として使われるうになるほど、劇的なエピソードとして伝えられた。2人タンガニーカ北端までの探検を行うなど、4ヶ月をともに過ごしたスタンリーリヴィングストン帰国強く勧めたが、リヴィングストンナイル水源突き止めるため、さらに探検続けることを望んだスタンリー1872年3月15日イギリスへ向けて旅立ち、5ヵ月後にリヴィングストンの許に57人の従者十分な物資送った8月15日リヴィングストン一行バングウェル湖へ向け出発し翌年4月29日にはバングウェル湖南側、チタンボへたどり着いた。しかし、日記探検の記録書き付ける余力もないまま、5月1日マラリア複合症により息を引き取った彼の従者たち深く悲しみにくれながらも、彼の残した日記資料携行品など防水の箱に入れ彼の亡骸簡単な防腐処理施してザンジバルへと運んだ亡骸ザンジバル埋葬されそうになるが、故郷のあるイギリスへ返すべきだと従者主張したため、海を越えてイギリスへ運ばれた。1874年4月18日、無事イギリスへ到着した亡骸左腕傷跡により確認されたのち、ウエストミンスター寺院葬られるリヴィングストン残した資料日記は、彼の友人により『デイヴィッド・リヴィングストン中央アフリカでの最後の日記(Last Journals of David Livingstone in Central Africa)』として編纂され出版された。 なお、本書は、外交官としてニューヨークなどに滞在しインドネシア総領事つとめた姉歯平によって、明治41年内外出版協会より『リヴィングストン言行録』として翻訳出版されている。 リヴィングストンアフリカ大陸での移動数万マイルに及ぶと推測されており、その生涯南北では赤道近辺からケープタウンまで、東西ではインド洋から南大西洋までを旅したことになる。彼が果たせなかったナイル水源探求は、意思継いだスタンリーによって、ルウェンゾリ山地にある水源発見されたことにより、19世紀論争にはほぼ決着付いた

※この「第三次アフリカ探検~アフリカでの死」の解説は、「デイヴィッド・リヴィングストン」の解説の一部です。
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