第三次アフリカ探検~アフリカでの死
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「デイヴィッド・リヴィングストン」の記事における「第三次アフリカ探検~アフリカでの死」の解説
西側を流れる支流が白ナイル リヴィングストンはボンベイを経由し、1866年1月16日にザンジバル(現タンザニア)へ到着した。3月22日にはルブーマ川の河口に到着、4月4日に内陸部へ入っていった。当初は各地から集められたポーターは36人いたが、脱落者が続出し、最終的には4、5人しか残らないほどの過酷な旅程だった。マラウィ湖を経由し、タンガニーカ湖の南側を目指して北北東へ進み続けたが、行く先々で奴隷商人の妨害に遭う。かれらに買収されたポーターはリヴィングストンは暗殺されたという虚偽の報告を行い、リヴィングストンの医療道具一式が入っている鞄を盗んでしまったと言われている。1867年には苦難の果てにタンガニーカ湖にたどり着き、ムウェル湖を発見し、翌年1月18日にはさらにバングウェル湖を発見したが、飢餓と体調の悪化に苦しみ、一旦タンガニーカ湖畔の村、ウジジへと戻ることとなった。 1869年7月から1871年の10月にかけては、静養を行いながら、ウジジ近辺の探索を行うことに費やされ、宣教や説教を頻繁に行った。1871年3月29日には、ルアラバ川(en:Lualaba)の岸辺で、1,500人もの奴隷が虐殺される場に偶然立ち会った。これはリヴィングストンが実際に目撃した中では最悪の事態であり、奴隷解放のために立ち上がろうとしたものの、その力は残っておらず、ウジジで静養を余儀なくされていた。 この間、イギリス国内では消息を絶ち、死亡説まで流れているリヴィングストンを探索する動きも出ていたが、過酷な旅に加えて現地での妨害もあり、失敗続きであった。1869年10月、『ニューヨーク・ヘラルド』の経営者であるジェームズ・ゴードン・ベネット・ジュニアは、ヨーロッパ滞在中に、特派員の1人であるヘンリー・スタンリーに電報を送り呼び寄せた。スタンリーはリヴィングストン捜索の依頼に承諾し、莫大な資金提供と、発見が成功した際の報奨金を約束された。スタンリーはただちに出発したが、他の取材のためパレスチナ、エジプト、インドなどを訪れていたため、ウジジにたどり着いたのは1871年11月10日であった。 スタンリーはウジジ近辺でリヴィングストンの従者と遭遇し、従者に導かれて本人と対面した。骸骨のようにやせ衰えた姿を見てスタンリーが発した「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?(Dr. Livingstone, I presume?)」は、のちにイギリスで思いがけず人と対面した時の慣用句として使われるようになるほど、劇的なエピソードとして伝えられた。2人はタンガニーカの北端までの探検を行うなど、4ヶ月をともに過ごした。スタンリーはリヴィングストンに帰国を強く勧めたが、リヴィングストンはナイルの水源を突き止めるため、さらに探検を続けることを望んだ。 スタンリーは1872年3月15日、イギリスへ向けて旅立ち、5ヵ月後にリヴィングストンの許に57人の従者と十分な物資を送った。8月15日にリヴィングストン一行はバングウェル湖へ向け出発し、翌年4月29日にはバングウェル湖南側の村、チタンボへたどり着いた。しかし、日記に探検の記録を書き付ける余力もないまま、5月1日、マラリアの複合症により息を引き取った。 彼の従者たちは深く悲しみにくれながらも、彼の残した日記、資料、携行品などを防水の箱に入れ、彼の亡骸に簡単な防腐処理を施してザンジバルへと運んだ。亡骸はザンジバルで埋葬されそうになるが、故郷のあるイギリスへ返すべきだと従者が主張したため、海を越えてイギリスへと運ばれた。1874年4月18日、無事イギリスへ到着した亡骸は左腕の傷跡により確認されたのち、ウエストミンスター寺院へ葬られる。リヴィングストンの残した資料と日記は、彼の友人により『デイヴィッド・リヴィングストンの中央アフリカでの最後の日記(Last Journals of David Livingstone in Central Africa)』として編纂され出版された。 なお、本書は、外交官としてニューヨークなどに滞在しインドネシア総領事をつとめた姉歯準平によって、明治41年、内外出版協会より『リヴィングストン言行録』として翻訳、出版されている。 リヴィングストンのアフリカ大陸での移動は数万マイルに及ぶと推測されており、その生涯で南北では赤道近辺からケープタウンまで、東西ではインド洋から南大西洋までを旅したことになる。彼が果たせなかったナイルの水源の探求は、意思を継いだスタンリーによって、ルウェンゾリ山地にある水源が発見されたことにより、19世紀の論争にはほぼ決着が付いた。
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