第三次エジプト遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 01:17 UTC 版)
「アモーリー1世 (エルサレム王)」の記事における「第三次エジプト遠征」の解説
シャーワルはシールクーフの再来を恐れてアモーリーと相互援助条約を結んだ。シャーワルの心配は杞憂とはならず、シールクーフは二度目の侵攻準備を行っていた。これを受けてシャーワルはアモーリーに援軍派遣を依頼し、再びアモーリーとシールクーフは矛を交えることになった。1167年初頭、両者はエジプトへと進撃し、先に着いたのはアモーリーだった。彼はシャーワルの軍と共にカイロの前面でシールクーフを待ち構えた。しかしシールクーフはアモーリーの裏をかいた。彼はカイロの南へと向かい、ナイルを渡り、北上した。そしてナイルを挟んでカイロの西に、シールクーフはギザのピラミッドのそばに布陣した。この時シールクーフはシャーワルに力を合わせてアモーリーを倒そうと提案したが、シャーワルはそれを拒絶したばかりではなく、エルサレム王国への朝貢を含む正式な同盟を結びさえした。その後、エルサレム・エジプト連合軍は南に移動していたシールクーフをナイルを渡って撃破しようと追った。しかし、3月18日のアル・バーバイン近郊で起こった戦闘でエルサレム・エジプト連合軍は敗退し、カイロに戻った。カイロに残していた主力を率いて再び南下しようとした時、アモーリーは敵がエジプト最大の都市アレクサンドリアを奪取したという知らせを受けた。敵のこの電撃的な作戦行動に驚きつつも、アモーリーとシャーワルはアレクサンドリアに向かい、同市を包囲した。町では食料が足りなかったために一ヶ月足らずで市内は食糧不足に陥ったが、シールクーフはアレクサンドリアを同行していた甥のサラディンに任せて夜に町を脱出し、上エジプトへと向った。その地でシールクーフは農民を味方につけて反シャーワルの蜂起を組織した後、カイロへと向かった彼はアモーリーに講和を打診し、長期戦を嫌ったアモーリーもまたそれに応じ、和議が成った。アレクサンドリアの包囲は解かれ、1167年8月、両軍は再び帰国した。この遠征はエジプトとの正式な同盟、エジプトの10万ディナールの朝貢、フランク軍のカイロ常駐という成果をエルサレム王国にもたらした。しかし、アモーリーはこれだけでは満足していなかった。
※この「第三次エジプト遠征」の解説は、「アモーリー1世 (エルサレム王)」の解説の一部です。
「第三次エジプト遠征」を含む「アモーリー1世 (エルサレム王)」の記事については、「アモーリー1世 (エルサレム王)」の概要を参照ください。
- 第三次エジプト遠征のページへのリンク