第三次グラッドストン内閣自治大臣
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「ジョゼフ・チェンバレン」の記事における「第三次グラッドストン内閣自治大臣」の解説
1886年2月に第3次グラッドストン内閣が成立した。 この頃グラッドストンはアイルランド自治の方針を固めていたが、アイルランド自治には党内からもハーティントン侯爵らホイッグ派から強い反発を受けていた。ハーティントン侯爵が入閣を拒否したため、ホイッグ派が離反した自由党内閣となった。 チェンバレンは前述したようにアイルランドへの地方分権には反対しなかったが(ホイッグ派は地方分権にも反対だった)、グラッドストンがやろうとしているようなアイルランド自治は大英帝国の結合を弱めるものとして反対していた。しかし対立しているホイッグ派と共闘する形になって派閥内の人望を落とすのだけは避けたいという思いがあったため、嫌々ながらグラッドストン内閣に入閣した。 本来チェンバレンは植民地大臣としての入閣を希望していたが、グラッドストンは「議員生活10年の政治家に植民地相は格が高すぎる」として拒否し、自治大臣(英語版)職を彼に与えた。 グラッドストンは緊縮のため、政務次官の一律減俸を行ったが、チェンバレンは先の総選挙の「3エーカーの土地と一頭の牛」キャンペーンの功労者であるジェス・コリングスの俸給まで減らされることに反発した。さらにグラッドストンはアイルランド自治法案の起草に熱中する余り、チェンバレンが作成した地方自治法案を閣議でまったく取り上げようとしなかった。このようなことが重なってチェンバレンの不満は高まっていった。 グラッドストンが3月13日に閣議でアイルランド自治法案を発表すると、チェンバレンは職を賭して同法案を阻止することを決意し、アイルランド議会に権限を与え過ぎている点、またアイルランド議員が連合王国議会から排除される点から連合王国の統一を破壊する法案として強く批判した。とりわけプロテスタント人口が多いアルスター(北アイルランド)にこのような法を適用するのは南北アイルランド紛争を激化させるとして反対した。グラッドストンとチェンバレンの交渉が何度か行われたものの、妥協には至らず、チェンバレンは3月24日に自治大臣職を辞職した。
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