第三次スウェーデン十字軍前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 07:21 UTC 版)
「スウェーデン・ノヴゴロド戦争」の記事における「第三次スウェーデン十字軍前後」の解説
「en:Third Swedish Crusade」も参照 1284年、ノヴゴロドの支配下にあったカレリア人から貢税を徴収するために、Torgils Knutsson(ru)を長とする艦隊がラドガ湖に侵入した。これに対し、ポサードニクのセミョーンを長とするノヴゴロド軍は、帰路につくスウェーデン軍をネヴァ川河口で待ち伏せて攻撃し、軍艦の大部分を破壊した。 1293年、スウェーデンはカレリア西部を占領し、ヴィボルグにヴィボリ城(ru)(ヴィボルグはロシア語名、ヴィボリはスウェーデン語名)を建設した。同年、ノヴゴロド軍はヴィボリ城を包囲するが不首尾に終わった。 1300年、Torgils Knutssonの指揮するスウェーデン軍が、ネヴァ川とオフタ川(ru)との合流点に上陸し、Landskrona要塞(ru)を構築した。ルーシの年代記は、これをヴェネツ・ゼムリャー(直訳:冠の地)と記している。Landskronaは非常に堅固な要塞であった。ノヴゴロド軍はスウェーデンの軍艦の破壊を狙い、筏を急造してオフタ川に放ったが、スウェーデン軍のほうが先にオフタ川に木材で堰を築き、ノヴゴロド軍の阻害に成功した。要塞への強襲も成功せず、ノヴゴロドの攻撃部隊は撤退した。同年の秋、スウェーデン軍は300人の駐屯部隊を残して本国に帰還した。翌1301年の春、ウラジーミル大公アンドレイの指揮するスーズダリ・ノヴゴロド軍がLandskrona要塞を包囲した。立てこもるスウェーデン軍は飢餓と壊血病によって弱体化し、長期の抗戦をなしえなかった。同年5月18日、ノヴゴロド軍は要塞内部への侵入に成功し、駐屯部隊を殺戮、また要塞に火をかけて破壊し、要塞を陥落させた。 14世紀初頭から両国の関係は緊張し、恒常的な戦争状態にあった。1310年、ノヴゴロド軍は、ラドガ湖に流入するヴオクサ川流域に小都市を再建するための遠征を行った。古い堡塁を元に、ノヴゴロドにとって同地の重要拠点となったコレラ要塞(ru)が建設された。スウェーデン軍もこれに応じて艦隊を発し、焼き討ちをかけている。 1311年、ドミトリー・ロマノヴィチ率いるノヴゴロド軍がフィンランド湾を横切り、フィンランドへの遠征を行った。ノヴゴロド軍はBorgåからタヴァステフスにかけての地域を占領し、莫大な戦利品を得た。1314年にノヴゴロドの支配に不満を抱いた同地のカレリア人が反乱を起こしてノヴゴロドの統治者を殺し、スウェーデンに支援を求めたが、数ヵ月後に再びノヴゴロドの従属下に置かれた。 1318年、ノヴゴロド軍はフィンランド南西のオーボを攻撃し、街、大聖堂、Kustö司教城を焼き払った。 1323年、モスクワ大公(兼ノヴゴロド公)ユーリーがヴィボルグを包囲したが、陥すことができなかった。同年、ノヴゴロド人はネヴァ川河口(ラドガ湖に注ぐ)のオレシェクに、ネヴァ川を押さえる重要拠点となるオレシェク要塞(ru)を建設した。
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