イタリアのエチオピア政策
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「エチオピアの歴史」の記事における「イタリアのエチオピア政策」の解説
ベニート・ムッソリーニ エミーリオ・デ・ボーノ ピエトロ・バドリオ 19世紀末からイタリアの人口は急激な上昇をみせ、国内では抱えきれない余剰な人口を抱えるようになっていた。イタリアはその問題の解決をアメリカへの移住によって解決しようとし、アメリカには毎年多くのイタリア人が移住してアメリカに一大コミュニティを形成していた。しかし、アメリカは移民に対する方針を転換し、1924年の移民法成立以降は逆に毎年10万人ものイタリア移民を送り返すようになる。イタリアの人口は1931年時点で4200万人に膨れ上がっており、ファシスト党も多産を奨励したため、世界恐慌と人口爆発が重なって社会不安をもたらした。中でも特に人口が過大だったのは農村部であり、そのため農業に従事する入植者の受け入れ先の確保が急務となっていたが、エリトリア、ソマリアには彼らを受け入れる耕作地も生産手段も不足していた。そのイタリアの窮した視点からすると、エチオピアの農業に適したエチオピア高原とプラチナ、ダイヤモンドといった資源の存在は非常に魅力的に写った。ムッソリーニはイタリア領東アフリカ帝国の建国に向けて動き出していた。ムッソリーニはイギリス、フランスとローマ協定を結び、イタリアのエチオピア領有への黙認にこぎつける。侵攻の準備を整えつつあったムッソリーニだが、その機先を制したのは日本だった。日本はエチオピアとの通商条約の締結により、武器、弾薬を積極的に供与し、ハイレ・セラシエ1世の外交努力もあって新聞は連日エチオピアとの親善を促していた。また、ムッソリーニの動きを決定的に掣肘を与えていたのは国際連盟の反対の動きだった。しかし、日本が満州へ侵略することで国際連盟の無力さは浮き彫りとなり、ムッソリーニを縛る枷が外れることになる。 エチオピアとイタリア領ソマリランドとの国境にあるワルワルという町があった。ワルワルはエチオピア東部のオガデンの近くにあり、地図上はエチオピア領とされていた。しかし、イタリアはこの町の帰属についてエチオピアの領有を認めておらず、1934年、軍を派遣して占有状態に置いた。エチオピアの主権の侵害とみたハイレ・セラシエ1世も軍を差し向け小規模な衝突が生じ、イタリア兵60人、エチオピア兵200人が死亡する事態となった。このワルワル事件をきっかけに、ムッソリーニは「攻撃的で野蛮な」エチオピアに対抗するためと称して黒シャツ隊(イタリア義勇兵)を編成し、ソマリアやエリトリアへ次々と送り込んでいった。一方、皇帝ハイレ・セラシエ1世は国際連盟に調査団の派遣を要請しつつ、戦争への準備を始めていた。アドワの戦いを経験しているムルゲタ陸相はイタリアの軍備から、毒ガス、空軍、戦車の運用を危惧し、ドイツから防毒マスク26,000個を購入した。エチオピアの各部族への動員も要請し、75万の動員力を確保した。軍備は空軍に対する高射砲、戦車に対する対戦車銃等の対抗手段を確保できなかったが、各部族の供出した兵力は主に旧式のライフル銃を所持していた。1935年、イギリスとフランスはイタリアに対して、「エチオピアの独立を名目上維持しながら英仏伊で共同管理する」というエチオピアを無視した妥協案をイタリアに示すが、ムッソリーニはこれを黙殺し、エチオピアへの単独侵攻を決定する。同年10月2日、ムッソリーニはアドワの戦いを引き合いにだした演説を行い、「我々から日のあたる場所を奪った不正義な黒人たちに正義を教え、文明化された我々の場所を取り戻さなければならない」としてエチオピアへの侵攻と東アフリカ帝国の建国を訴えた。第二次エチオピア戦争はその翌日から始まる。
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