アルバニア征服、ヴェネツィアとの和平
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「メフメト2世」の記事における「アルバニア征服、ヴェネツィアとの和平」の解説
モルダヴィア遠征から帰国した直後、メフメトはハンガリーの勢力下に置かれているセルビアの要塞を攻撃する。この時ハンガリーの兵力を分散させるため、アクンジュ(非正規の騎兵)がダルマチアとクロアチアに派遣された。1477年にはアクンジュは北イタリアのヴェネツィアの勢力圏に侵入し、町々を破壊した。ヴェネツィアの海外領土であるレパントの攻略を断念し、征服の目標をアルバニアに移した。 1478年春にメフメトはアルバニア親征を開始、他のヨーロッパの国々からアルバニアに援助は行われなかった。同年6月にアルバニアの首都クルヤは飢餓と疫病、援軍の敗退によってオスマンに降伏する。メフメトはアルバニアに残されたシュコドラの町に包囲を布き、1か月に及ぶ砲撃の後に総攻撃を命じた(シュコドラ包囲(英語版))。総攻撃の後もシュコドラを占領することはできず、包囲を継続する一方で援軍の到着を阻止するために他の都市に軍隊を派遣し、数か月の攻防の末にシュコドラは陥落した。クルヤとシュコドラの陥落により、アルバニアの大部分がオスマンの支配下に入る。 15年以上に渡ってオスマンと戦争状態にあったヴェネツィアは、国庫が窮乏し、ヨーロッパ諸国から孤立した状況に置かれていた。住民はペストの流行とアクンジュの襲撃に恐怖し、ヴェネツィアではオスマンとの講和の気運が高まっていた。1479年1月にメフメトはヴェネツィアと和約を結び、黒海の制海権を掌握した。同年8月、メフメトはヴェネツィアの元老院に優れた画家をイスタンブールに送るよう要請した。メフメトの要請を受けたヴェネツィアは、画家ジェンティーレ・ベリーニを派遣する。 ヴェネツィアとの和約によりモルダヴィアは援助を絶たれ、翌1480年にシュテファン大公はオスマンに臣従を誓った。
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