ドイツ統治時代
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「レホボス・バスター」の記事における「ドイツ統治時代」の解説
「ドイツ領南西アフリカ」も参照 ドイツによる併合の過程で、バスターの部族長であるヘルマナス・ファン・ヴィック(英語版)は、1884年10月11日に同地における原住民としては初めてドイツ帝国との間に、外交をはじめとする行政権におけるバスターの権限が大幅に削減される代償に、ドイツ人とバスターの共存を保証する内容の保護友好条約に署名した。 1893年に、ドイツはバスターに対して独自の憲法の適用を認める居留地を設置し、以降もバスターの代表による領域の拡大を求める交渉が続けられた。ドイツ人の居留地は、バスターの統治区域よりも面積が広く、同区域内においてはドイツの植民地法が適用されていた。また、その土地の大部分は、ドイツ人入植者が所有する農場として開発された。 1895年には、バスターの兵役義務に関する条約が批准された事に伴い、バスターによる軽歩兵部隊が設置され、ドイツ帝国軍と共に、先住民による反乱の鎮圧にあたった。特に、1904年~1907年にかけてのヘレロ戦争(英語版)では、先住民であるヘレロとナマ人に対する大規模な虐殺に加担している。 ドイツ側の国勢調査では、レホボスにおけるバスターの人口は、1912年に3,000人にまで増加している事と、彼等が兼ね備えている高い移動性を指摘している。 レホボスとドイツは、第一次世界大戦勃発後の1914年まで、20年以上も緊密な関係を保っていた。ドイツの植民地防衛隊(英語版)は、障碍の無いバスターの男性全員に兵役義務を課そうとしたが、この事はバスター社会から反発を買う結果を招いた。 植民地防衛隊は、イギリスと同盟を結んでいる南アフリカ連邦防衛軍(英語版)には、殆ど勝ち目が無いと見込んでおり、バスターも双方に対して中立を維持しようと試みる一方で、日和見主義的なスタンスによって、ただでさえ縮小された自治権が完全に失われる、という最悪の事態が起きる可能性とも葛藤する事となった。 白人同士の戦争に、同胞の若者達を出征させたくないと考えていたバスター協議会は、テオドール・ザイツ(英語版)総督と、バスター兵は後方支援にのみ従事させるという合意に達したと捉えていた。協議会は、バスター兵達が通常の兵士と見なされる事を危惧し、彼等にドイツ軍の軍服を着用する事を認めなかった。だが、協議会の抗議にも関わらず、バスター兵達には自身等の居留地から遠く離れた場所での任務が割り当てられる事となった。 1915年2月に、とある収容所で南アフリカ人捕虜の監視にバスター兵が割り当てられた際は、捕虜の内50名に看守兵と親類関係にあるカラードの人間がいた事から、親族同士を看守と捕虜の立場に置くという措置に対して、バスター兵から抗議の声が挙がった。看守兵の一部が捕虜の脱獄を手助けする事態にまで発展し、ドイツ側はバスター兵に割り当てる弾薬の数を制限する懲罰措置を取った。 レホボス・バスターの第2代部族長となったコーネリアス・ファン・ヴィックは、1915年4月1日にウォルビスベイで南アフリカのルイス・ボータ首相と密会し、南アフリカがドイツ領南西アフリカを併合した場合、バスターの領土と権利が認められる事を保証する様に働きかけた。ボータもファン・ヴィックに対し、これ以上バスター兵を戦闘に参加させない様に忠告した。 南アフリカの勝利により、ドイツ軍の将校達はバスター協議会に、捕虜とバスター警備隊を北に移動させる事を助言した。会合において、ドイツ側はバスターに対して決断をするまでの期限として、3日の猶予を与えた。協議会は、警備隊を北部へ退避させる事は、南アフリカがバスター警備隊を完全な敵対勢力と見なし、危険に晒される事態を招いてしまう事を危惧した。これにより、バスターは協議会・兵側ともにドイツ側の提案を拒否する決断を下した。1915年4月18日夜に、300名のバスター兵達は、2台のウォーワゴンに乗り込んでドイツ軍から集団脱走し、レホボスへ遁走する計画を立てた。しかし、計画はドイツ軍の知るところとなり、ドイツ側はバスター兵達を武装解除させた。その過程で、非武装のバスター1名が殺害され、大慌てとなった協議会側は、問題の解決をはかるべくドイツ側への接触を試みたが、レホボスのバスター社会は激しい怒りに包まれる事となった。 混乱の最中、バスターとナマ人の警察官はレホボスの居留地内でドイツ軍将校の武装解除を試み、1人に重傷を負わせ、もう1人を殺害した。また、ナマ人警官が率いる武装集団は、ドイツ人住民への無差別殺人を実行した。 1915年4月22日に、ドイツ軍は一連のバスター側の行動は保護条約に違反する敵対的なものと見なす事を書面で通知した。ザイツ総督は、レホボスを攻撃する事を意図して、バスターとの保護条約を破棄した。ファン・ヴィックはその旨をボータ首相に知らせ、ボータはバスターをレホボスから遁走させる様助言した。バスターは家畜の大群を追いながら荷馬車で移動し、山地へ逃げ込んだ。時を同じくして、バスターに対するドイツの攻撃が、同地域の周辺で開始される事となった。 ドイツ軍の基地で働いていた14歳のバスターの女児は、酒に酔った将校達がバスターへの攻撃計画を話している事を偶然耳にして、その内容を部族長であるファン・ヴィックに報告した。これにより、女性や子供を含めた約700人のバスターが、ドイツ軍の攻撃に備えるべく、レホボスの南東80kmにある山岳地帯であるサムクビスへ撤退した。その最中にファン・ヴィックは、農場に潜伏させていた自身の子供とその家族達が、ドイツ軍に虐殺されるという悲劇に見舞われている。 1915年5月8日、ドイツ軍はサムクビスへの攻撃を開始した。そこでは、要塞が700〜800人のバスターによって守られていました。ドイツ軍は、2門の大砲と3丁のマキシム機関銃により攻勢をかけたにも関わらず、7~800名のバスター兵によって守られた要塞を攻略する事が出来ず、日没をもって撤退を余儀なくされた。ただ、バスター側も弾薬の殆どを使い果たし、翌日の敗北は目に見えている状態だった。 だがその翌朝、ドイツ軍にはレホボスへ進攻した南アフリカ軍に応戦する為に、サムクビスから撤退する様上層部から命令が下され、奇跡的にレホボスのバスター社会は壊滅を免れる事が出来た。この5月9日は、バスターの歴史と不屈の精神を後世に伝えるべく、現在でも毎年祝われ続けている。 バスターがレホボスへ帰還した際、一部の農場においてドイツ人がバスターによって殺害される事態が起きた。ドイツ軍は、民間人の保護の為にいくつかの部隊を配置したが、南アフリカ軍が接近すると5月23日に撤退した。バスター達は、ドイツ人の家畜を奪い、農場を略奪し、宣教師の家まで襲撃した。一連の惨劇は、戦後も長期間に亘って両者の間に深い禍根を残す事となった。
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ドイツ統治時代
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「イタリアのアルバニア侵攻」の記事における「ドイツ統治時代」の解説
1943年9月にイタリア王国が連合国に降伏した事で占領統治は終焉を迎えるが、次いでドイツ軍の占領下に置かれてしまった為にイギリスのゾグーは帰国できなかった。一方、アルバニアの国家主義者はアルバニア・ファシスト党を再編して大アルバニア防衛を結成すると進駐してきたドイツ軍に加担し、今度はナチ党を模倣したアルバニア国家社会主義党を結党した。ドイツは第21SS武装山岳師団「スカンデルベク」を編成して(かつてイタリアがそうした様に)彼らを戦力化したが、大量の脱走兵を出したスカンデルベク師団は半年余りでアルバニア人部隊からドイツ人部隊へと再編された。 占領から開放されたアルバニアではゾグー派の国家主義者とソビエト連邦の支援を得たパルチザンが争い、後者が勝利を得てアルバニア人民共和国が成立した。エンヴェル・ホッジャの指導の下で安定を得たアルバニアにゾグーの戻る余地は無く、そのままフランスで客死した。数十年後の1997年に共産政権が崩壊した後には息子のレカ1世が王位即位を宣言するが、国民投票で敗北して国外に退去した。
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ドイツ統治時代
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ジャルート環礁は1884年からドイツの保護領となり、1906年からはドイツ領ニューギニアの一部として統治された。しかし本国から遠く離れたこともあり、インフラストラクチャーや教育、医療は手付かずであった。
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