モントリオール万国博覧会とは? わかりやすく解説

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モントリオール万国博覧会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/30 03:36 UTC 版)

EXPO 1967
万博ロゴ
概要
BIE区分 Universal
区分 一般博
標語

人類とその世界

(Man and his World)
主な建築物 アビタ67団地
面積 365ヘクタール (900エーカー)
観客数 54,991,806
運営者 ピエール・デュピュイ
出展者
国数 60
団体数 2
会場
カナダ
都市 モントリオール
会場 ノートルダム島
セントヘレナ島
現: ジャン・ドラポー公園
座標 北緯45度31分00秒 西経73度32分08秒 / 北緯45.51667度 西経73.53556度 / 45.51667; -73.53556
経緯
立候補 1958
選出 1962
初日 1967年4月27日 (1967-04-27)
最終日 1967年10月29日 (1967-10-29)
登録博覧会
前回 シアトル万国博覧会シアトル
次回 日本万国博覧会大阪市
特別博
前回 ミュンヘン国際博覧会ミュンヘン
次回 サンアントニオ国際博覧会サンアントニオ
インターネット
ウェブサイト expo67
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モントリオール万国博覧会(モントリオールばんこくはくらんかい、Expo 1967)は、1967年4月28日から10月27日までカナダモントリオールで開催された国際博覧会(第1種一般博)である。カナダ建国100周年を記念する国家的事業として位置づけられた。

概要

バックミンスター・フラー設計のアメリカ館「バイオスフェア」
アレクサンダー・カルダーのスタビル『人』、モントリオールの1967年万博会場跡で
モントリオール万博の一部として建設された集合住宅「ハビタット67

テーマは「人間とその世界」。国主催では、62ヶ国が参加した。博覧会の会場は、セントローレンス川に人工造成された2つの島、サンテレーヌ島(Île Sainte-Hélène)とノートルダム島(Île Notre-Dame)を中心に整備された。総面積は365ヘクタールで、団体・民間・州政府・企業展示を含む「展示参加総数」は90か国以上に及び、183日間の会期で、来場者数は約5,500万人となった。これは、当時のカナダ人口(約2,000万人)を大きく上回る規模であり、博覧会史上でも屈指の成功例とされる。

1967年10月の万博終了後、「人間とその世界」とテーマ設定された会場及びパビリオンの多くは、1968年から1981年まで夏期のみ開業し続けた。当初の設計では長期間存続させる建築ではなかったため、老朽化が進み、多くは撤去されることとなった。今日では万博跡地は一部存続させた建物を除き、公園及びレクリエーション施設として使用されている。

カナダでは現在でも、1967年のモントリオール万国博覧会が、1976年のモントリオール・オリンピックと並び20世紀カナダを象徴する国家的文化イベントの一つとして語られている。とはいえ、オリンピックが巨額の赤字と長期の債務返済[1]という“財政的負の遺産”を抱えたのに対し、万国博覧会は来場者数・国際的規模・観光波及効果・都市インフラ整備など多面的に成功を収め、後世において文化・都市・経済の持続的な価値という観点で優位に評価されている。[2]

テーマ

1963年に、カナダの有識者がモンテベロの「シャトー・モンテベロ」に集まり、開催テーマを検討した。出席者には、カナダ国立美術館館長アラン・ジャービス、小説家ヒュー・マクレナンとガブリエル・ロワ地球物理学者ツゾー・ウィルソン都市計画家クロード・ロビラールなどが名を連ねていた。

テーマは「人間とその世界」(英語: Man and his World : フランス語: Terre des Hommes)。

1939年のサン=テグジュペリ随筆集『人間の土地』(Terre des Hommes)にちなんで選ばれた。

総合テーマ「人間とその世界」に基づき、下記の17の副テーマを設定[3][4]

1. 人間 — Man, His Planet, and His World(人間・その地球・その世界)

2. 社会 — Man the Producer(生産する人間)

3. 科学 — Man the Explorer(探求する人間)

4. 技術 — Man the Creator(創造する人間)

5. 芸術 — Man the Artist(芸術家としての人間)

6. 教育 — Man the Learner(学ぶ人間)

7. 情報 — Man the Communicator(伝達する人間)

8. 居住 — Man the Builder(建設する人間)

9. 余暇 — Man the Leisure Seeker(余暇を楽しむ人間)

10. 健康 — Man the Health Keeper(健康を保つ人間)

11. 社会秩序 — Man and His Community(共同体の中の人間)

12. 経済 — Man the Producer(生産・消費する人間)

13. 政治 — Man the Citizen(市民としての人間)

14. 宗教 — Man the Believer(信仰する人間)

15. 科学技術 — Man and the Atom(原子と人間)

16. 宇宙 — Man and the Universe(宇宙と人間)

17. 未来 — Man and the Future(未来の人間)

会場

会場はセントローレンス川沿いの旧モントリオール港(Old Port)周辺に位置した。この地域は19世紀以来、港湾施設として発展してきたが、1960年代に入ると大型船の航行に対応できなくなり、港湾機能の移転(セント・ローレント港など)が進められた。その結果、老朽化した埠頭や倉庫群が並ぶ低利用地帯となっていた。[5]

  • サン=テレーヌ島(天然島)
  • ノートルダム島(人工島)
  • シテ・デュ・アーヴル(旧埠頭)

の3つのエリアから構成された。総面積は約365 ヘクタールに及び、1960年代当時の都市工学・交通計画・景観設計を総動員して整備された大規模複合会場であった。[6]

モントリオール万博会場図(本図は北を右にしてあります)。セント・ローレンス川の中洲のサン=テレーヌ島と、その南東の人工島ノートルダム島(Île Notre-Dame)が主会場となった。南西にあるのがシテ・デュ・アーヴル(旧埠頭)である。

ノートルダム島は、モントリオール地下鉄建設で発生した約2,800万トンの掘削土砂を用い、わずか10か月で造成された人工島である。四方を川に囲まれたこの島は、国際博覧会史における人工島会場の先駆例とされる。[7] 一方、サン=テレーヌ島は既存の天然島を約2倍に拡張し、広大な展示ゾーンと各国パビリオンが配置された。[8]

両島は複数の橋梁や連絡道路で結ばれ、モントリオール中心部からは新設の地下鉄イエローラインが直結していた。島間の移動には会場内鉄道「エクスポ・エクスプレス(Expo Express)」が整備され、さらに会場巡回用として電動ミニトレイン「ミノレール(Minirail)」や自動輸送システムが導入され、来場者は島全体を循環しながら各展示を巡ることができた。[9]

会場設計には、博覧会のテーマ「人間とその世界(Man and His World)」が反映され、自然・技術・都市の融合を重視した構成が採られた。中心部には文明・科学・都市の未来を表現するテーマ館群が置かれ、周囲には各国・企業パビリオンが放射状に展開した。[10]

博覧会終了後、これらの島々は恒久的な都市公園「ジャン=ドラポー公園(Parc Jean-Drapeau)」として再整備され、文化施設やイベント会場、遊戯施設を含むモントリオール市民の主要なレクリエーション空間となっている。[11]

経済的評価

モントリオール万博は、入場者数・国際的評価・都市インフラ整備の各面で「歴史的成功」と称される一方で、会計上は赤字を計上した。 最終的な総事業費は約4億3,000万カナダドル、そのうち運営費だけでも2億8,300万カナダドルを占めた[12]。収入は約2億2,000万カナダドルにとどまり、結果として6300万ドル超の赤字(236億円)となった。[13][14]

モントリオール万博のために建設された住居建築「ハビタット67」
現在のノートルダム島(万博会場跡地)

この「成功と赤字の両立」は、万博の評価軸が経済的収支ではなく、国家的ブランド形成・都市基盤整備・国際的影響力にあったことを示している。モントリオールはこの博覧会を通じて地下鉄(モントリオール・メトロ)や港湾、橋梁、空港インフラを整備し、都市の国際化が加速した。 後年の研究では、Expo 67は「財政的には赤字でも、文化・外交・都市開発の面では黒字」と位置づけられている。[15]

英語圏とフランス語圏の軋轢

モントリオール万国博覧会(Expo 67)は、カナダ建国100周年の記念事業として連邦政府が主導した国家的催しであったが、開催地ケベック州はフランス語圏の文化と政治運動の中心地であり、博覧会は英語圏とフランス語圏の微妙な関係を象徴する場ともなった。

1960年代のケベック州では「静かな革命(Révolution tranquille)」と呼ばれる社会改革運動が進み、フランス語話者による政治的自立や経済的平等を求める気運が高まっていた。[16] 一方、連邦政府は博覧会を「カナダ統一の象徴」として位置づけ、英語圏・フランス語圏双方の参加を強調したものの、準備段階では言語表記や運営方針をめぐって摩擦が生じた。特に案内表示・公式出版物の英仏併記方針をめぐって、「どちらの言語が優先されるのか」をめぐる論争が続いた。[17]

博覧会期間中の象徴的事件として知られるのが、1967年7月24日、モントリオールを訪問したフランス大統領シャルル・ド・ゴールが市庁舎のバルコニーで発した「Vive le Québec libre!(ケベック独立万歳)」という発言である。[18] この発言はケベック民族主義を国際的に支持したと受け止められ、英語圏カナダでは強い反発を招いた。連邦政府首相レスター・B・ピアソンは直ちに「カナダの統一を脅かす発言」として抗議声明を出し、両国関係が一時的に冷却化した。[19]

この事件は、Expo 67が単なる祝祭的イベントではなく、カナダ社会が抱える「二つの言語・二つの文化」の緊張関係を世界の注目の下で露呈させた出来事として記憶されている。カナダとフランスとの間の外交問題になっただけでなく、ケベック州分離運動に対する国際的関心を高めた。以後、カナダでは連邦とケベック州の関係見直しや、公用語法、二言語政策の制度化へと議論が進むきっかけとなった。[20]

開催までの経緯

背景

当時もともと1967年の万国博覧会は、ロシア革命50周年記念行事としてソビエト連邦モスクワでの開催が決定していたものが中止の決定を受け、1962年にカナダでの開催が決定した。決定当時、カナダ国内での開催について、国民の支持はあまり得られていなかったが、モントリオール市長および組織委員会スタッフなどが政治的・物理的ハードルを乗り越え、開催に至った。1967年万博開催の案は、1956年にさかのぼる。当時の保守党上院議員マーク・ドルアンがブリュッセル万博で、カナダが建国100年を迎えるので記念として万博開催をするべきではないかと演説したことに始まる。当初、開催はトロントに提案されたが当時の政治家が案を拒否。しかしモントリオール市長サルト・フルニエが同意しカナダが次回の博覧会国際事務局(BIE)に万博招致を申し入れることとなった。1960年パリで開催されたBIE会議では、モスクワオーストリアとカナダを破り開催権利を獲得したが、1962年にソビエト連邦が財政面の不安と、訪問客による西側文化の持ち込みを懸念し、開催権利を返上した。新市長ジャン・ドラポーは政府に働きかけ再招致を試み、1962年に正式にBIEが開催地を変更しカナダでの開催が決定した。

モントリオールではモン・ロワイヤル公園などいくつかの開催地が検討されたが、ドラポー市長の案はセントローレンス川に新しい人工島(「ノートルダム島」)を建設し会場とすることだった。周辺の都市からは土地の高騰などの不安のため反対意見が出された。

主要人物

準備当初は難航し、1963年に組織委員会の幹部の多くが辞職。理由として当時のコンピューターがイベント準備が間に合わないと予測した[21] こともあるが、4月の総選挙で自由党レスター・ピアソンが勝利したことが上げられる。カナダ進歩保守党ジョン・ディーフェンベーカー元首相が万博運営会社の役員を任命していたからで、辞職を強いられたとされる[22]

ディーフェンベーカーが任命していた組織委員会会長ポール・ビアンヴニュが1963年に辞任した後、外交官ピエール・デュピュイが任命された。彼の主要業務は万博に建設する外国のパビリオンを誘致することとなり、1964年と1965年のほとんどを125か国を訪問することに費やした。その際、デュピュイ会長の右腕として辣腕を揮ったのが副会長兼運営会社副社長のロバート・フレッチャー・ショーであった。彼の元で万博の準備・建設・運営を切り盛りしたのがアンドリュー・ニーワッサー率いる「レ・デュー(タフなやつら)」と呼ばれるグループだった。

歴史家ピエール・バートンによると、万博の「成功の鍵」は英語を話すコミュニティーとフランス語を話すコミュニティーの協力だったと言う。ケベック(フランス語系)の感性、英語系の実践力[23]

エピソード

  • 1970年代のテレビシリーズ『宇宙空母ギャラクティカ』のエピソード「地球からの挨拶パート2」は、1979年に万博会場で撮影され、万博会場の建造物は、遠い昔の戦争で人々が皆殺しにされた異星の都市を表現するために使用された[24]
  • 次回1970年開催予定の大阪万博PR使節として、歌手・坂本九が5月13日、日本館に出演し『スキヤキ』『世界の国からこんにちは』などを歌唱している[25]
  • 日本は当時の先端技術紹介の意図でテレビ電話や屋外に国産車を展示したが、多くは単なる陳列が主体となり、商品の見本市のようだと不評であった。また、万博の商業利用の禁止という理念に反するとして批判を受け、次の日本での万博不参加を表明する国も現れた。

関連項目

脚注

  1. ^ https://www.cfr.org/backgrounder/economics-hosting-olympic-games?utm_source=chatgpt.com
  2. ^ https://www.britannica.com/event/Expo-67?utm_source=chatgpt.com
  3. ^ Roy G., Table of contents
  4. ^ https://www.bie-paris.org/site/en/1967-montreal?
  5. ^ https://www.port-montreal.com/en/the-port-of-montreal/about-the-port/the-port-of-montreal-through-history/timeline
  6. ^ Expo 67 Official Guide – City of Montreal (1967 official archive)
  7. ^ Government of Canada – Heritage Information Network: Expo 67 Construction Report (1968)
  8. ^ City of Montreal Urban Planning Archives – Expo 67 Development Plans (1969)
  9. ^ Transport Canada – Expo 67 Transportation Systems Overview (1967)
  10. ^ McGill University Library – Expo 67 Architectural Committee Papers (1966)
  11. ^ Parc Jean-Drapeau Official Site – History and Legacy (2017)
  12. ^ https://www.thecanadianencyclopedia.ca/en/article/expo-67?utm_source
  13. ^ Expo 67” (英語). The Canadian Encyclopedia. 2025年10月26日閲覧。
  14. ^ CBC Digital Archives – Expo 67” (英語). CBC. 2025年10月26日閲覧。
  15. ^ Rhona Richman Kenneally, Johanne Sloan, ed (2010). Expo 67: Not Just a Souvenir. University of Toronto Press. ISBN 978-1442640627 
  16. ^ カナダ研究会編, ed (2015). カナダを知るための60章. 明石書店. pp. 112-117 
  17. ^ 大石裕 (2004). カナダ 現代国家の多文化的構造. 有斐閣. pp. 86-90 
  18. ^ “ド・ゴール発言、ケベック民族主義を刺激”. 朝日新聞. (1967年7月26日) 
  19. ^ “ピアソン首相、ド・ゴール発言に抗議”. 読売新聞. (1967年7月26日) 
  20. ^ 清水聖子 (2008). ケベックの挑戦―カナダ多言語社会のゆくえ. 彩流社. pp. 45-53 
  21. ^ Brown, 1963-11-05
  22. ^ Berton, p. 262
  23. ^ Berton, p. 269
  24. ^ Expo 67 on Battlestar Galactica”. www.worldsfairphotos.com. 2025年4月24日閲覧。
  25. ^ 大阪万博余聞拾い集め(ただし1970年の話です)”. www.note.com. 2025年4月24日閲覧。

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