冷戦下の左派の北朝鮮賛美と韓国批判、右派の韓国支援
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「嫌韓」の記事における「冷戦下の左派の北朝鮮賛美と韓国批判、右派の韓国支援」の解説
戦後の朝鮮半島に対して、日本国内は北朝鮮、韓国建国後に自由主義陣営を支持する右派、共産主義陣営を支持する左派、最多を占めた無関心の3つに別れた。 55年体制下では韓国に対する批判、嫌悪発言は主に左翼・革新陣営によって行われていた。北朝鮮の金日成賛美の独裁体制への民主化は求めず、「韓国を支配しているのは軍事独裁政権であり、日本や米国の支配層と癒着し、反政府運動を行う民衆を情報機関(KCIA)によって抑圧している」ととらえて韓国日本にのち民主化を求めて韓国への批判する活動を行っていた。 この立場からの韓国批判の象徴として広く影響を与えたのが雑誌「世界」に長期連載されたT・K生(池明観)「韓国からの通信」である。しかし、韓国政権あるいはそのKCIAに対する批判は北朝鮮を擁護するためのものだとする意見も多く存在する。北朝鮮に好意的な朝日新聞、岩波書店などは、北朝鮮による日本人拉致問題や人権蹂躙については目をつぶる一方で、韓国に対し批判的であった。 北朝鮮を支持し、当時日朝協会理事だった寺尾五郎は1961年の韓国の軍事クーデターの際に、大韓民国国軍が腐敗した政権に任せられなかったと発言したことについて「これほどの笑い話は珍しい」「将軍たちは腐敗の権化である」「南朝鮮でもっとも無能なもののひとつも軍である」と、アメリカの支配下にあって、なぜ安定できるのかと韓国を非難した。 小田実も朴正煕と面会した印象を「見栄えのしない小男だった」と評した。この時点では「嫌韓」という言葉は使われていなかった。和田春樹は、北朝鮮は自主独立を実現していると肯定的に評価し、それに対して「韓国は自主独立、民族自立を達成しておらず、かつ政治的自由も労働運動もない」と批判した。 日本社会党は、当初は南北対等の態度を取ると説明しつつ、党内対立もあって1963年に代表団を派遣したが北朝鮮との関係や北朝鮮・朝鮮総連支援は日本共産党が主に担っていた。しかし、1960年代後半以降に共産党が北朝鮮と疎遠になったため、代わって社会党が北朝鮮や朝鮮総連と友好関係を築きはじめた。1970年代初頭には社会党の成田知巳委員長は北朝鮮訪問団を引き連れて金日成と会見した。朝鮮労働党も日本共産党に代わって日本社会党を友党と呼ぶようになって、日本の左派主流による北朝鮮と朝鮮総連支援は緊密化された。 1965年の日韓基本条約締結以来、日本は朝鮮半島の安全保障上の観点から、日本と同様に米国の同盟国であり、共産圏との防波堤である韓国の親米軍事独裁政権と同調し、開発独裁を事実上容認して支援を続けてきた。自民党など保守派には「親韓派」と呼ばれる勢力が大きな影響力をもっていた。 冷戦中は世界基督教統一神霊協会(現:世界平和統一家庭連合)が反共主義を強く掲げていたことで活動の批判をせずに支持するなど共同歩調を取っていた。岸信介、福田赳夫など「親韓派ロビー」の影響力は政界に限らず、日本の右派勢力と韓国軍事政権とは緊密な関係を保っており、多額の政府開発援助(ODA、円借款)も行われた。 産経新聞は、1960年代から70年代にかけて北朝鮮を批判する一方、日本の左派から親米として批判されていた朴政権を高く評価し、韓国民からも「親韓派」として好意的に受け止められていた。 1982年にいわゆる歴史教科書問題が発生し、日本政府は『「歴史教科書」に関する宮澤喜一内閣官房長官談話』を発表、文部省は教科用図書検定基準の中に「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」という近隣諸国条項を追加した。しかし、この時には右派の韓国支援と左派の韓国批判姿勢など保革両翼の対韓認識を大きく変えるには至らなかった。だが、後に韓国が反共による北朝鮮批判よりも日本批判を優先するようになって以降は、非左派による韓国批判、いわゆる冷戦後に嫌韓の中心的テーマの一つとなる。
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