冷戦下の日韓関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:08 UTC 版)
アメリカのベトナム共和国(南ベトナム)への介入によってベトナム戦争(1955年11月 - 1975年4月30日)が勃発し、日韓の政府はともにアメリカに協力した。韓国は約5万人をベトナムに派兵して参戦し、軍需物資の生産や建設、労働者の派遣、兵士への手当てなどをアメリカから得た。日本は南ベトナムをはじめとして韓国、台湾(中華民国)、香港、タイ、フィリピンなどのベトナム周辺地域に輸出を行った。これらはベトナム特需とも呼ばれた(後述)。 日韓国交正常化により、韓国は朴正煕の軍事独裁政権下で、日本からの円借款などの経済協力も利用して、地下鉄・高速道路などの各種交通インフラを整備し、「漢江の奇跡」と呼ばれる工業化・経済発展を実現した。日本の商社は韓国に進出し、労働力が安価で済む韓国は日本への重要な輸出基地となった。また、安全保障においても佐藤栄作総理大臣とリチャード・ニクソン米大統領が韓国の平和と安全の維持が日本にとっても重要であるという韓国条項が発表された。 日本の敗戦後、臣籍降下がなされた旧皇族の梨本宮家出身の李方子は、大韓帝国の李垠の妃となったのちに、終戦後は日本国憲法のもとで在日韓国人とされた。李承晩政権の時代には帰国できず、朴正煕政権になってようやく李垠とともに夫婦での韓国への帰国が実現した。帰国後の方子は障害児教育に取り組んで韓国で親しまれ、葬儀は朝鮮王朝の礼式にもとづいて準国葬が行われて、日本からは昭和天皇の末弟で皇族の三笠宮崇仁親王・同妃百合子夫妻が参列した。 日韓の国交は外交と投資に関しては正常化したものの、朴正煕政権の維新体制のもとで金大中事件、文世光事件、朴正煕暗殺事件が起きて外交問題ともなった。1974年に発生した文世光事件では、落としどころとして韓国側から「反韓国的犯罪集団」(朝鮮総連)への規制が求められるなど外交面からの譲歩が行われた。 歴史認識をめぐっては歴史教科書問題が起きるなど、必ずしも両国の国民感情は良好ではなかった。日本側では韓国から進出してきた統一協会(旧:世界基督教統一神霊協会、現在の世界平和統一家庭連合)による霊感商法批判も起こったが、中曾根康弘内閣総理大臣が就任後の初めての外国訪問先に慣例である米国ではなく韓国を選び、40億ドルの円借款を決定したことから、全斗煥大統領による韓国人初の日本への公式訪問が実現した。盧泰愚大統領時代には地方自治の推進、1988年ソウルオリンピック開催、海外渡航の自由化があり、それまでの政府やビジネス主導の交流に加えて、姉妹都市や修学旅行など地域レベルの民間交流が増加した。
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