ギルワ陥落とブナ・ゴナ地区での戦闘の終結
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「ポートモレスビー作戦」の記事における「ギルワ陥落とブナ・ゴナ地区での戦闘の終結」の解説
最後の砦となったギルワは海岸と中央区の間を分断され、1943年1月14日に第18軍はクムシ河口への撤退を命じ、15日には南海支隊幹部は海岸の陣地に後退した。そして、傷病者の後送にあたっていた横山与助大佐率いる独立工兵第15連隊が17日に海岸の陣地から撤退し、山県少将は18日に全軍撤退を通達した後19日に独立混成第21旅団を率いて撤退した。同19日、南海支隊長小田少将は中央区の陣地の南海支隊主力に、戦傷者を残して撤退させる命令を出し自らも撤退しようとしたが、独立工兵第15連隊と独立混成第21旅団が全ての舟艇(8艇)を使って撤退してしまったため舟艇が無く、南海支隊幹部は撤退できず小田少将は「山県に裏切られた」と憤慨した後、参謀の富田義信と共に自決した。内陸の陣地にいた部隊は陸路であったため撤退は困難を極めたが、小田少将からの命令に従って20日夜に中央区の陣地から撤退した小岩井光夫少佐指揮の南海支隊主力は落伍者を出しながらもクムシ河口に撤退できた(後マンバレーに集結)。南西区の陣地の歩兵第144連隊主力は、塚本中佐の判断で撤退命令を待たず12日に独断退去したが壊滅的損害を被った。21日にオーストラリア・アメリカ軍がギルワ陣地に突入し、中央区では歩くことができず脱出は勿論自決もままならないほど衰弱した者が抵抗を試みたものの占領され、約70名の日本兵が捕虜となった。これによりブナ地区の戦闘は終結した。 一方、マラリアによる戦病者も多数発生し、連合軍側の損害もオーストラリア第30旅団が半減するなど軽微なものではなかった。だが連合軍兵士はほんの軽症でも戦線から離脱しており、殆どが戦死・戦病死の日本兵の損害は比較にならない。 1943年2月9日、大本営は「ブナ付近に挺進せる部隊は寡兵克く敵の執拗なる反撃を撃攘しつつありしがその任務を修了せしにより、一月下旬陣地を撤し他に転進せしめられたり」と発表したが、実際には上記のとおりブナ地区の日本軍守備隊は全滅しており、虚偽の発表であった。 ただし同方面における戦闘の実情は陸軍の報道班員によっておおむね正確に報じられており、最前線における日本軍の苦境は日本国民にも広く伝わっていた。
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