ギルワ陥落とブナ・ゴナ地区での戦闘の終結とは? わかりやすく解説

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ギルワ陥落とブナ・ゴナ地区での戦闘の終結

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 04:12 UTC 版)

ポートモレスビー作戦」の記事における「ギルワ陥落とブナ・ゴナ地区での戦闘の終結」の解説

最後の砦となったギルワは海岸中央区の間を分断され1943年1月14日第18軍はクムシ河口への撤退命じ15日には南海支隊幹部海岸陣地後退した。そして、傷病者後送にあたっていた横山与助大佐率い独立工兵15連隊17日海岸陣地から撤退し山県少将18日全軍撤退通達した後19日独立混成21旅団率いて撤退した。同19日南海支隊長小田少将中央区陣地南海支隊主力に、戦傷者残して撤退させる命令出し自らも撤退しようとしたが、独立工兵15連隊独立混成21旅団全ての舟艇(8艇)を使って撤退してしまったため舟艇無く南海支隊幹部撤退できず小田少将は「山県裏切られた」と憤慨した後、参謀富田義信と共に自決した内陸陣地にいた部隊陸路であったため撤退は困難を極めたが、小田少将からの命令に従って20日夜に中央区陣地から撤退した小岩井光夫少佐指揮南海支隊主力落伍者出しながらもクムシ河口撤退できた(後マンバレーに集結)。南西区の陣地歩兵144連隊主力は、塚本中佐判断撤退命令待たず12日独断退去したが壊滅的損害被った21日にオーストラリア・アメリカ軍がギルワ陣地突入し中央区では歩くことができず脱出は勿論自決ままならないほど衰弱した者が抵抗試みたものの占領され、約70名の日本兵が捕虜となった。これによりブナ地区戦闘終結した一方マラリアによる戦病者も多数発生し連合軍側の損害オーストラリア30旅団半減するなど軽微なものではなかった。だが連合軍兵士はほんの軽症でも戦線から離脱しており、殆どが戦死戦病死日本兵損害比較ならない1943年2月9日大本営は「ブナ付近に挺進せる部隊寡兵克く敵の執拗な反撃撃攘しつつありしがその任務修了せしにより、一月下旬陣地を撤し他に転進せしめられたり」と発表したが、実際に上記のとおりブナ地区日本軍守備隊全滅しており、虚偽発表であった。 ただし同方面における戦闘実情陸軍報道班員によっておおむね正確に報じられており、最前線における日本軍苦境日本国民にも広く伝わっていた。

※この「ギルワ陥落とブナ・ゴナ地区での戦闘の終結」の解説は、「ポートモレスビー作戦」の解説の一部です。
「ギルワ陥落とブナ・ゴナ地区での戦闘の終結」を含む「ポートモレスビー作戦」の記事については、「ポートモレスビー作戦」の概要を参照ください。

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