アンネの日記
別名:Het Achterhuis
英語:The Diary of a Young Girl、The Diary of Anne Frank
ユダヤ人の少女、アンネ・フランクが、1942年から1944年にかけて執筆した日記を基にした文学作品。アンネ・フランク一家がナチス・ドイツによる迫害を逃れ、亡命先のオランダのアムステルダムで潜伏生活を行う中で書かれた。アンネの日記は、第二次世界大戦終戦後の1947年に、アンネの父、オットー・フランクによって出版された。
アンネ・フランクは1942年6月12日から日記を書き続けていたが、1944年8月4日に、密告により秘密警察(ゲシュタポ)に逮捕され、日記はその時点で中断された。アンネはベルゲン・ベルゼン強制収容所に移送され、そこでチフスにより死亡した。オットー・フランクは移送先のアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で終戦まで生き延びたのち、アムステルダムで娘の日記を受け取り、翻訳・編集を行ったのちに出版を行った。
「アンネの日記」の初版は1947年に出版され、世界中で2500万部を超えるベストセラーとなった。アンネの日記は、ナチス・ドイツによる人種差別政策やホロコーストの様子を後世に伝える文学作品として、教科書などでしばしば取り上げられている。また、アンネの日記を基にした演劇や映画が数多く上演・上映された。
なお、オットー・フランクはアンネの日記の一部記述を削除しているが、のちに削除箇所が増補され、「完全版」と銘打って出版された。
アンネのにっき【アンネの日記】
アンネの日記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/16 05:36 UTC 版)
『アンネの日記』(アンネのにっき、オランダ語: Het Achterhuis)は、ユダヤ系ドイツ人の少女アンネ・フランクによる日記様の文学作品。
- ^ キャロル アン リー 著、橘高 弓枝 訳『アンネ・フランク: 「隠れ家」で日記を書き続けた少女』偕成社、2003年7月1日、18頁。
- ^ “『アンネの日記』など、ユネスコの「世界の記憶」として新たに登録”. current.ndl.go.jp. 国立国会図書館 関西館. 2022年8月22日閲覧。
- ^ Bellis, Mary. “About ballpoint pens”. About.com. 2014年2月閲覧。
- ^ Netherlands Institute for War Document:The Diary of Anne Frank:The Revised Critical Edition. Doubleday, Amsterdam 2003, p. 167, ISBN 9780385508476
- ^ kurier.at:Anne Franks Tagebuch ist UNESCO-Welterbe (Kurier, 31. Juli 2009)
- ^ 「アンネの日記」、ユネスコが世界記憶遺産に登録 (AFPBB News, 2009年07月31日)
- ^ “「アンネの日記」オンライン公開、著作権で論争も”. AFPBB News (2016年1月2日). 2020年10月2日閲覧。
- ^ “「アンネの日記」が著作権切れで無料公開へ、アンネ・フランク財団は「法的措置を取る」と警告”. GIGAZINE (2016年1月4日). 2020年10月2日閲覧。
- ^ “Wikimedia Foundation removes The Diary of Anne Frank due to copyright law requirements”. Diff Wikimedia Foundation (2016年2月10日). 2020年10月2日閲覧。
- ^ “著作権侵害申し立てを受け「アンネの日記」がWikisourceから削除される”. GIGAZINE (2016年2月16日). 2020年10月2日閲覧。
- ^ 名著36 「アンネの日記」 NHK
アンネの日記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 06:35 UTC 版)
ミープはアンネ本人に渡そうと思っていた彼女の日記をオットーに渡すことを決意した。塞ぎこんでいたオットーに「アンネのお父さんへの形見です」と言って日記を渡したという。 日記はオットーがアンネに贈った手帳とノート数冊、ばらの用紙327枚から成っていた。手帳とノートはアンネがその日付の日に書いたオリジナルの日記、ばらの用紙はアンネが後から書き直していた日記である(アンネは日記の出版を考えていたので途中から日記の書き直し作業をしていた。1944年3月29日の記述まで書き直しが及んでいる。オランダ国立戦時資料研究所編『アンネの日記 研究版』ではオリジナルをaテキスト、書き直した物をbテキストと呼んでいる)。 アンネの日記を読みふけったオットーはこれを親戚や友人たちに読ませたいと考え、日記をタイプし直した。ばらの用紙の改訂版の方を土台にして、アンネの書いたオランダ語からドイツ語に翻訳し、家族の悪口や存命中の人物を不愉快にさせるような記述、またアンネの個人的なこと、興味を持たれぬであろう記述などを削除していった(『アンネの日記 研究版』はこのオットーによる編集が加えられた物をcテキストと読んでいる)。さらに友人の劇作家アルベルト・カウフェルンと彼の妻イーサに見てもらって文法上の誤りを修正して清書してもらった。こうしてできた物が親戚や友人に配られた。 これを読んだ友人のアムステルダム大学講師クルト・バシュヴィッツはオットーに日記の出版を薦めた。アンネは日記の出版を夢見ていたからオットーにも公刊したい気持ちはあった。友人のヴェルナー・カーン(百科事典編集者)が出版してくれる業者を探し回ってくれたが、簡単には見つからなかった。しかしカーンの上司である百科事典編集責任者の歴史家ヤン・ロメインがその原稿を読んで、1946年4月3日の「ヘト・パロール(オランダ語版)』紙に「一少女の声」と題するレビューを書いた。これがきっかけでアムステルダムのコンタクト社(Contact Publishing)が興味を持ち、性的な記述などの部分の削除を条件に1946年夏に同社が出版を引き受けることとなった。
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