アウシュヴィッツ第一強制収容所(基幹収容所)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 13:50 UTC 版)
「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」の記事における「アウシュヴィッツ第一強制収容所(基幹収容所)」の解説
航空写真 1940年5月20日、ドイツ国防軍が接収したポーランド軍兵営の建物をSSが譲り受け開所。約30の施設から成る。平均して13,000 - 16,000人、多いときで20,000人が収容された。被収容者の内訳は、ソ連兵捕虜、ドイツ人犯罪者や同性愛者、ポーランド人政治犯が主となっている。後に開所する「第二強制収容所ビルケナウ」や「第三強制収容所モノヴィッツ」を含め、アウシュヴィッツ強制収容所全体を管理する機関が置かれていた。 入り口には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」の一文が掲げられている。「B」の文字が逆さまに見えることについて、SSの欺瞞(ぎまん)に対する作者(被収容者)のささやかな抵抗と考える向きもあるが、実際にはこの書体は当時の流行であった。10号棟には人体実験が行われたとされる実験施設が、11号棟には逃亡者や収容所内でのレジスタンス活動を行った者に対して銃殺刑を執行するための「死の壁」があり、そのほかには、裁判所、病院などがあった。収容施設は、女性専用の監房、ソ連兵捕虜専用の監房などといった具合に分けられている。また、アウシュヴィッツ最初のガス室とされる施設が作られたが、後に強制収容所管理のための施設となった。戦後、ガス室として復元され、一般に公開されている。
※この「アウシュヴィッツ第一強制収容所(基幹収容所)」の解説は、「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」の解説の一部です。
「アウシュヴィッツ第一強制収容所(基幹収容所)」を含む「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」の記事については、「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」の概要を参照ください。
- アウシュヴィッツ第一強制収容所のページへのリンク