ローマ軍基地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/25 02:35 UTC 版)
「アルテンシュタット (ヘッセン)」の記事における「ローマ軍基地」の解説
2世紀前半から、アルテンシュタットは、詳細不明のヌーメルス(ドイツ語版、英語版)(約150人からなる一個部隊)の駐留地(カストラ・アルテンシュタット)となっていた。この部隊は、初めは広さ 1 ha 程度のカストラに駐留していた。カストラは四角形で、木材と土で造られた防御柵を有しており、堀で囲まれていた。1つの門と隅櫓が知られている。内部には様々な建物の痕跡が見られる。その後、135年頃に新たなカストラが築かれた。新しいカストラは、おそらく、1 ha 以上の広さがあり、芝土で造った防御柵があった。カストラの北半分は、やや西側にずれている。このカストラには、4つの門、複数の隅櫓があり、堀で囲まれていた。内部には、地下貯蔵庫や、司令官の館を含む司令部跡、一般兵舎跡が見られる。 150年頃に石造のカストラが建設された。1.5 ha (132 m × 114 m) の四角形の平面を持ち、4つの門と複数の隅櫓、数多くの中間の塔が築かれた。二重の堀がこのカストラを囲んでいた。内部には、水槽や、おそらく司令官の館と思われる司令部跡、一般兵舎跡、その他の建物跡が見られる。ヌーメルスが駐留する以前、ここには2つの小さなカストラがあった。それらは、木材と土で造られた防御柵を持ち、一重の堀で囲まれていた。基地城下町は、あらゆる方角に広がっていった。 アルテンシュタットのローマ軍基地は、おそらくローマ時代以前からあったニッダー川沿いにフォーゲルスベルク山地やさらにフルダに至る街道を抑えることと、わずか 5 km 離れたグラウベルクを監視することの2つの任務を負っていた。グラウベルクは、ローマ時代以前にはケルト人領主の拠点であり、ケルト人の撤退後はゲルマン人が入植していた土地である。ローマ人は、ケルト人でもゲルマン人でもない、その他の者たちが自分たちの支配地域内およびその周辺地域に入植することは許容していた。現在、カストラの領域は完全に屋根がかけられている。この城塞の歴史はかなり複雑である。それは、時代とともに小さな砦からヌーメルスを収容するカストラに発展したためである。このカストラは、2世紀後半とアレマン人の侵入による233年と 2回破壊されている。1603年に泉から回収された、242年の銘を持つ石材は、260年のリメスの終わりまでこのカストラが維持されていたと推定する根拠となっている。
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