先史時代、古代、中世初期および盛期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 04:40 UTC 版)
「ヴェッツラー」の記事における「先史時代、古代、中世初期および盛期」の解説
すでに旧石器時代からヴェッツラー地域では定住がなされており、ダルハイム市区付近にも定住地があった(ダルハイム廃村、ヴァーネンドルフ廃村)。気候の良い場所であったため、約5万年前のヴュルム氷期(ドイツ語版、英語版)にも人々はこの地に留まった。 ヴェッツラー=ダルハイムのラーン川沿いにおける近年の大規模な発掘調査で、7,500年から7,000年前の線帯文土器文化の大規模な定住跡が発見された。この他に、この近辺ではゲルマン人由来の定住地が発見されている。その一部は紀元前後の時代に設けられ、およそ1400年の間定住が続けられていた。ヴェッツラー市内にはさらにケルト人の集落も存在していた。 ケルトのラ=テーヌ時代にはすでに、ヴェッツラー周辺で鉄鉱石の採掘・精錬が行われていたことが証明されている。鉄加工業はこの地で約2500年の伝統を有している。 東の市境に接するヴァルトギルメスにはローマの民間人集落があった(フォルム・ラーナウ=ヴァルトギルメス)。ドルラーには紀元後1世紀に建設されたローマ軍基地があった。 ヴェッツラーという地名は、語尾の -lar から判断して、おそらく3世紀までに成立した。本市の存在が証明されるのは8世紀以降である。 ヴェッツラーが市場開催権やこれに伴う市場税徴収権を獲得した時期は不明である。やがて、後にマリエン修道院が築かれドームヒューゲル(聖堂の丘)と呼ばれることになる丘に、市場町が建設された。これが商人や職人を惹きつける求心力となった。897年以前の最初の教会建設まで、ここはおそらく敬虔なキリスト教徒たちの集まる場所であった。 旧カルスムント城: カール・メッツによれば、この城(城砦および城館)は早くもローマ時代初期に創建されたと推測される。ツェドラーによれば、すでに存在していた都市の統治をより良好に行うために、カール大帝が785年頃にこの城館を建設した。このためこの城は、Carols Mons (Carlmund または Carlmont) と名付けられた。現代語では以下の意味となる: Kals- = Karls(「カールの」)、-munt = Vasall(「家臣」)、すなわち「フランク王国の封臣」である。他に古ゲルマン語やケルト語に語源を求める説もある。たとえば、「Kalsmunt という名称はケルト語由来であり、「不毛の丘」を意味している」として、「実りの乏しい丘陵地」を示すというものである。カルスムント城では、ヴェッツラー向けの硬貨が鋳造された。 古い文献記録としては、インゴルトという人物の832年のロルシュ修道院への寄進状がロルシュ文書(ドイツ語版、英語版)(Nr. 3146)にある。 ヴェッテラウ(ドイツ語版、英語版)の伯で904年からロトリンゲン公となったコンラーディナー家のゲープハルト(ドイツ語版、英語版)が、897年にサルヴァトール教会(救世主教会)を聖別したというのが最も古い建築に関する記録である。彼はヴェッツラーに聖マリア修道院を建設し、そこに葬られた。10世紀の初めに、ゲープハルトの息子で後のシュヴァーベン公ヘルマン1世とヴェッテラウの伯ウード1世によってマリエン修道院教会(現在のヴェッツラー聖堂)が創建された。
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