ローマ軍の全滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 23:54 UTC 版)
マクシムスと大カエピオは合流したが、激しい仲たがいが続いていた。大カエピオはマクシムスと共同の陣営で作戦協議をすることを肯んぜず、命令権の独立を主張した。元老院から派遣されている顧問団の仲裁や将校たちが設けた両指揮官の会合も逆効果だった。マクシムスとボイオリクス王の交渉が進むのを見た大カエピオは、10月6日に自分の手兵を率いて突如キンブリ族の陣営を強襲した。モムゼンは、大カエピオが、同僚に手柄を独り占めにされることを恐れたのではないかとしている。しかし、この行動はあまりに軽率で準備を欠いたため、キンブリ族の粘り強い守備に跳ね返され、逆襲に遭って大カエピオ軍は壊滅した。キンブリ族によって宿営地は略奪され、大カエピオは無傷で戦場から逃走した。 大カエピオの軍にたやすく勝利を収めたキンブリ族は、指揮官の内輪揉めで士気が下がっていたマクシムスの軍にも襲いかかった。ローヌ川の対岸で友軍が全滅するのを見ているしかなかったマクシムス軍は、宿営地の位置取りが悪かったために逃げることもできず、川岸に追い詰められた。多くの兵が川に逃げ込んだが、重装歩兵は重い鎧で動きもままならないまま溺れ死に、逃げ延びた者はわずかだった。マクシムスは息子が戦死し、自身も命からがら戦場から離脱した。当時の軍には、戦闘員の他にその半数の従者や非戦闘員が同行することが多かったが、彼らも犠牲となった。ローマ軍の犠牲者数については議論があるが、リウィウスは戦闘員の死者だけで8万人と主張している。モムゼンは、戦闘員以外に兵数の半分近い非戦闘員も死んだとしている。
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