ローマ領内への移動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 07:54 UTC 版)
「ランゴバルド人」の記事における「ローマ領内への移動」の解説
540年頃、ワコーは死んだ。ワコーは自分の息子であるワルタリ(英語版)に王位を継承させるため、自分の即位時に甥であるリシウルフを追放していた(ランゴバルド部族法では彼が次の正統な王位継承者であった。)。これによりワルタリが王位を継ぐことができたが、彼の治世は短命に終わり、ガウス家(イタリア語版)のアウドイン(英語版)が王位についた。当時東ローマ帝国はユスティニアヌス1世の下、イタリア半島の支配権を東ゴート王国から取り戻すべく長い戦争の最中であった(ゴート戦争)。イタリア半島に交通の便が良いドナウ中流域で急速に勢力を拡大したランゴバルド人は、東ローマ帝国にとって戦略上無視できない存在となっていた。546年にユスティニアヌス1世はランゴバルド人を味方とするためアウドインと盟約を結び、巨額の年金を与えること約すとともにノリクム、パンノニアへの移住をランゴバルド人に許可した。この時初めてランゴバルド人は「ローマ帝国領」に移住した。この結果、後にユスティニアヌス1世はイタリアでの戦いにおいて、同盟軍(フォエドゥス foedus)となったランゴバルド人から援軍を得る事ができた。しかしアウドインと彼の指揮するランゴバルド人は東ローマ帝国が期待したような従順な同盟者ではなく、548年にはダルマティアとイリュリクムを寇略し、多数の住民を奴隷として連れ去るなどの問題を引き起こした。 ローマ領内でも急激に勢力を拡張するランゴバルド人は、同じくローマ領内のシルミウムに拠点を置いて勢力を持っていたゲピド族(ゲピド王国)と対立するようになった。更にワコー王に追放されたリシウルフの息子、イルディゲスを巡るランゴバルドの内紛が事態を悪化させた。イルディゲスは自分がランゴバルドの王位継承者であるとし、その正統な地位の回復への支援をゲピド王に求めた。547年と549年には軍事衝突に至る可能性のある危機があったが、この時は実際の戦闘に入る前に和平が行われた。イルディゲスはゲピド族から期待した支援を得られないことを悟ると、一時スラブ人の下に身を寄せ、その後独自にランゴバルド人、ゲピド人、スラブ人からなる混成軍を率いて東ゴート王国と結ぶべくイタリアへ向かい、ゴート戦争に参加して東ローマ軍と戦うなど流転の人生を歩んだ。イルディゲスが去った後も両部族の対立は続き、551年に遂に軍事衝突に発展し、ランゴバルド人はゲピド族を打ち破った。しかしランゴバルド人が過剰に勢力を拡大することを望まなかった東ローマ帝国は、両部族の和平を画策して介入し、結局ゲピド族を完全に滅亡させることなく和平が結ばれた。その後、ランゴバルド人は東ローマ帝国の同盟軍としてゴート戦争に参加し、552年には東ゴート王トーティラを戦傷死させるなどの活躍を示したが、占領した都市で放火略奪を欲しいままにし、教会に避難した婦女に暴行を加えるなど暴虐の限りを働いた。このため激怒した東ローマ軍の司令官ナルセスによって護送軍付きでイタリアから退去させられた。
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