結党期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/01 09:45 UTC 版)
スハルト政権初期の1973年1月に制定された「政党・ゴルカル法」によって、既存の政党勢力のうち、イスラーム系4政党は開発統一党(PPP)に、それ以外の非イスラーム系5政党はPDIに整理・統合された。それに先立って1971年に行なわれたスハルト体制での最初の総選挙で、諸政党は政府「与党」ゴルカルに大敗したため、政党勢力は政府による強引な政党簡素化政策に対抗できなかった。 PDIに統合された5政党は以下のとおり。( )内は1971年第1回総選挙でのそれぞれの得票率。 インドネシア国民党(PNI) Partai Nasional Indonesia (6.98%) インドネシア・クリスチャン党 Partai Kristen Indonesia (1.34%) カトリック党 Partai Katolik (1.19%) インドネシア独立擁護連盟(IPKI)(0.62%) ムルバ党 Partai Musyawarah Rakyat Banyak(0.09%) 政党簡素化によって成立した2政党は、いずれも諸勢力による寄り合い所帯であったため、主導権争いなどの内紛で、党運営にいちじるしい支障をきたすことになったが、それでもPPPにはイスラームという紐帯があった。それに対してPDIにはまったく何の紐帯もなかったため、党発足当初から困難な歩みを続けていくことになった。
※この「結党期」の解説は、「インドネシア民主党」の解説の一部です。
「結党期」を含む「インドネシア民主党」の記事については、「インドネシア民主党」の概要を参照ください。
結党期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 22:36 UTC 版)
PKIの前身となったのは1914年に中部ジャワのスマランで結成された東インド社会民主主義同盟 Indische Sociaal-Democratische Vereniging(以下ISDVと略す)である。このISDVは蘭領東インドに在住する左派オランダ人、欧亜混血児、華人を中心としていたが、この組織に参加する「原住民」メンバーが増加するにしたがい、組織内での「原住民」活動家の発言力が高まっていった。 ISDVからインドネシア共産党(PKI)へ組織改編されたのは1920年、名称が変更されたのは1924年である。PKIの議長になったスマウン Semaun、副議長になったダルソノ Darsono らの党幹部は、ISDVで育った「原住民」活動家だった。また、その結党は、アジアにおける合法共産党としてはもっとも早かった(中国共産党結成は1921年、日本共産党結成は1922年である)。 その後、労働組合活動などにおいて党員数を拡大し、1926年末から1927年のはじめにかけて武装蜂起を決行した。しかし、その武装蜂起は綿密に計画されたものではなく、散発的なものにとどまった。そのため、植民地政府によって瞬く間に鎮圧され、党の指導者の逮捕、あるいは海外逃亡によって、党は壊滅した。
※この「結党期」の解説は、「インドネシア共産党」の解説の一部です。
「結党期」を含む「インドネシア共産党」の記事については、「インドネシア共産党」の概要を参照ください。
- 結党期のページへのリンク