結党前
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2013年当時、野党の中でも日本維新の会とみんなの党は、政策も近く合併話が持ち上がっていた。しかし両党ともに党内は一枚岩ではなく、合併などを巡って党内対立が存在していた。 みんなの党内では、党運営を巡る対立や特定秘密保護法をめぐる政策の違い、野党再編に向けたスタンスの違いから渡辺喜美代表と江田憲司幹事長らの対立が激化。同党を除名された江田らを中心に2013年12月18日に結いの党が発足した。 江田らは従来から日本維新の会などとの選挙協力や将来的な政界再編を目指しており、2014年1月からは結いの党と日本維新の会の政策協議がスタート、さらに地方議会レベルでは東京都議会、神奈川県議会などで結いの党と日本維新の会の合同会派が続々と誕生した。これに対して今度は日本維新の会内で、結いの党との合流に肯定的な橋下のグループと否定的な石原慎太郎のグループとの党内対立が激化。結果、日本維新の会は7月31日に解党した。 翌8月1日、石原らは次世代の党を結党し離脱、残った議員が改めて日本維新の会(法的には、前日に解散された日本維新の会とは同名義の別団体)を再結党し総務大臣に設立届けを提出。8月3日、日本維新の会と結いの党が合流に向けて新党設立準備会を設立。9月10日の合同両院議員総会で新党名が「維新の党」に正式決定された。
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結党前
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「日本維新の会 (2012-2014)」の記事における「結党前」の解説
2008年(平成20年)1月27日 - 大阪府知事選挙で橋下徹が当選。 2009年(平成21年)4月25日 - 松井一郎ら府議6名が自由民主党会派を離脱し、新会派「自由民主党・維新の会」を設立。 2010年(平成22年)4月1日 - 上記会派および他党会派に所属する府議22名が新会派「大阪維新の会大阪府議会議員団」を設立。 4月19日 - 上記会派に府議8名を新たに加え、政治団体「大阪維新の会」を結成。橋下徹が代表に、松井一郎が幹事長に就任。 2011年(平成23年)4月10日 - 統一地方選として行われた府議選・大阪市議選・堺市議選で大阪維新の会が大勝を収める。 11月27日 - 大阪市長選で橋下徹が、府知事選で松井一郎が当選。 2012年(平成24年)9月8日 - 大阪維新の会は所属議員を集めた会議で、国政進出を目指すことを正式に決定した。あわせて、橋下徹を党首とする新しい政党の名を「日本維新の会」とすることで合意した。 9月11日 - 自民党・民主党・みんなの党に所属する国会議員7名が合流を表明。なお総選挙までに3党から合流した国会議員は合わせて13名となった。 9月12日 - 維新八策を掲げた綱領が発表される。
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結党前
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2010年に結成されたたちあがれ日本は平沼赳夫を党首とする保守系の小政党で、保守系の言論人である石原慎太郎東京都知事も「応援団長」として党に関わっていた。 2012年1月25日、石原と平沼、国民新党の亀井静香で3月中にも新党を結成するとの報道が流れた。当初、平沼は「亀井さんの一人芝居」と否定してきたが、以降、石原新党結成を目指した発言をしていくようになる。平沼は同日の記者会見で保守結集を目指し、「自民、民主の一部に働きかけ、70〜80人を糾合することを目標にしたい」と語り自民党の反発を受けた。自民党の谷垣禎一総裁は27日夜、「自民党からも引っ張ってこようというような失礼な話にコメントする必要もない」と不快感を示した。31日、石原伸晃幹事長も「人の財布に手突っ込むな」と反発した。 3月7日、平沼は記者会見で「都知事は、予算などで都議会が開かれているので、3月までに新党をつくるのは現実、考えられない問題だ」として当初目指していた3月結成を断念。「謀は密なるものを旨とすることだ。作業は深く静かに潜行してやっていかなければならない」とも述べて引き続き新党結成を目指す姿勢を鮮明にする。石原は4月12日、訪米前に成田空港で記者団の取材に応じ、新党構想について「一回ないことにする。白紙に戻す。やる必要があるならばおれ一人でも台本づくりをやる」と新党構想を練り直しを表明する。その後、訪米先で都による尖閣諸島購入を表明。たちあがれ日本もこれを支援するため、尖閣諸島購入の為の寄付金募集の口座を作り、以降石原及び平沼は尖閣購入関連の活動に注力する。国民新党を離党した亀井静香は新党について「5月末にはできる」と言い、また6月のたちあがれ日本の政治資金パーティで新党のお披露目があるのではないかと期待されたがなかった。 7月4日、たちあがれ日本は石原新党を視野にいれた「平成24年政策宣言」を発表した。自主憲法制定を最初に掲げ、尖閣諸島への自衛隊配備や財政への複式簿記の導入など、石原氏が進める政策を後押しする内容も盛り込む。政策宣言のキャッチフレーズは「日本力倍増!」。またこれに伴う会見で平沼は亀井との同一行動を否定し、石原も同様の対応を取るだろうと推測した。9月、政府により尖閣諸島が購入され、尖閣購入問題に一定の決着がつく。20日、平沼は横浜市中区内の講演で「38年間付き合ってきた仲だ。必ずできる」と明言した。10月12日、石原は記者会見で「中央官僚の国家支配をぶち壊さなきゃいけない。私は身を捨てて何でもやるつもりだ」と意欲を見せ、併せて「後は私の年齢(80歳)と健康だ」と近く健康診断の結果で最終判断する考えを示した。さらに翌日の13日には、新党「日本維新の会」を結成した橋下徹と石原と平沼が極秘会談した。 10月25日、石原は午後3時から緊急記者会見を開き、東京都知事の辞任と新党結成の意向を示し、自身は東京ブロックでの比例出馬を表明した。記者会見の後、たちあがれ日本の本部で全議員と対応を協議。30日の拡大支部長会議でたちあがれ日本の解党と石原新党への合流を決定した。しかし10月30日の全国拡大支部長会議では「たちあがれ日本を解党して石原新党へ合流する」方針を撤回し「たちあがれ日本を改名して石原新党とする」方針に修正した。これは、たちあがれ日本を解党した場合、たちあがれ日本に対する政党交付金(12月分のみで約4300万円)を受け取れなくなるという事情があった。
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