結党・与党復帰とは? わかりやすく解説

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結党・与党復帰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:08 UTC 版)

小沢一郎」の記事における「結党・与党復帰」の解説

1998年平成10年1月6日自由党結成小沢党首就任した当初100名以上の衆参議員が集まると思われたが、結局衆議院議員42名、参議院議員12名の計54名が参加する留まり野党第1党の座を民主党譲り渡した同年7月12日第18回参議院選挙では苦戦必至思われていたが、小沢人気もあり、比例代表で514票、合計6議席獲得し善戦した参議院選挙後の臨時国会では、首班指名民主党代表菅直人野党統一候補臨み参議院では自民党小渕恵三抑え指名された(衆院では小渕指名されたため、衆議院の優越原則から小渕首相に就任した)。小沢参院での野党共闘より政府・自民党追い込む戦略であったが、は「政局にしない」と発言金融再生法制定自民党協力したことにより、野党共闘ほころび見せた1998年10月小沢内閣官房長官野中広務会談連立交渉開始した小沢は党としては国政選挙遥かに上回る広告宣伝費使って自身顔写真用いたポスター数十万枚全国街頭に貼り張り巡らしテレビで自身顔写真全面押し出したモノクロCM連日放映して連立交渉優位に進めビル・クリントン訪日直前同年11月19日自民党との連立政権について小渕合意書を交した。 1999年平成11年1月14日には正式に自自連立政権発足し党幹事長野田毅自治大臣として入閣小沢5年ぶりに与党復帰した。この連立の間に、衆議院議員定数20削減閣僚ポスト削減、およびイギリス内閣二大政党制目指すとして、政府委員制度廃止政務次官制から副大臣政務官制への移行と、党首討論設置を含む国会改革自民党に呑ませた。また、同年発刊された『文藝春秋9月特別号に「日本国憲法改正試案」を寄稿し、自らの改憲論について語っている。 1999年10月公明党政権入り自自公連立政権成立した自民公明両党で参院過半数抑えることになったため(野中らは公明引っ張るために、自由党連立組んだという事情もあった)、政権内部での自由党存在感必然的に低下した。自自両党の選挙協力遅々として進まず小沢自民党総裁小渕総理大臣に対して自自両党の解散新し保守政党結成要求した中曽根康弘亀井静香等は小沢復党認め方針であったが、党内の反小沢勢力は「小沢復党認められない小沢抜きで復党認められる。」とし、小沢自身も「復党認められなければ連立解消だ。」と応酬し両者2000年平成12年4月1日会談するが、合意達せず結局連立解消した直後小渕脳梗塞倒れ5月14日死去した

※この「結党・与党復帰」の解説は、「小沢一郎」の解説の一部です。
「結党・与党復帰」を含む「小沢一郎」の記事については、「小沢一郎」の概要を参照ください。

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