盧武鉉と共に
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2002年5月、年末の大統領選挙を目指していた新千年民主党の盧武鉉の政策諮問団団長を務めたところから本格的に政治と関わっていくことになる。12月の大統領選挙では盧武鉉が次期大統領に当選し、金秉準も大統領職引継ぎ委員会に加わった。盧武鉉政権発足後は大統領の諮問機関である政府革新地方分権委員会の委員長に就任。 2004年6月、病気で入院中の朴奉欽に代わる青瓦台政策室長に任命される。この時、尹太瀛大統領府スポークスマンは金秉準について、行政学の理論や実務に関する見識、経験を備えている改革を指向する学者であると表現し、国の主要課題解決のための調整を円満に行ってくれるだろうと期待を表明している。 金秉準は政策室長として、大統領政策企画委員長の李廷雨(朝鮮語版)と共に盧武鉉政権の政策設計に関わり、首都移転、不動産投機対策、教育、地方分権、行政改革、格差是正といった問題に取り組んだ。2005年7月に李廷雨が退任したため金秉準はその分の業務も引き受けることとなった。しかし具体的な成果は上げられず、特に不動産投機対策や税金政策の失敗が与党ウリ党の支持低下、ひいては2006年5月31日の統一地方選挙における与党惨敗を招いたとされる。加えて金秉準には健康問題も浮上しており、選挙の2日前に政策室長を辞任した。 2006年7月には内閣改造が行われ、金秉準は教育人的資源部(現在の教育部)長官となる。同職は副首相を兼任することとなっていたため、金秉準も副首相(教育担当副首相)となった。しかしこの内閣改造自体の評判はあまり芳しいものではなかった。加えて金秉準が過去に提出した論文について、教え子の論文からの盗用疑惑や、過去に提出した論文と似た論文を新たに作成し重複提出することで研究費の二重取りを行っていたことが発覚し、野党から辞任要求が噴出。就任後わずか12日後の8月2日に辞意を表明した。しかし10月には大統領諮問政策企画委員長として青瓦台の一員に復帰し、翌11月には大統領政策特別補佐官も兼任することとなった。 2008年2月の盧武鉉政権終焉とともに政界から離れ、古巣の国民大学校に教授として戻った。また経済専門メディアイツデイ(朝鮮語版)会長や社会デザイン研究所理事長に就任するなどした。長年行動を共にした盧武鉉が2009年5月に飛び降り自殺し、金秉準も弔問に姿を見せている。
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