東漢氏への編入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 19:16 UTC 版)
雄略天皇の時代に行われた軍事力の中央集権化に伴い、土着の豪族に仕えていた渡来人達は東漢氏や秦氏に編入され直接朝廷に隷属することとなった。桑原・佐糜・高宮・忍海の漢人らも例外ではなく、彼らは仕えていた葛城氏が五世紀半ばに滅亡した後、東漢氏へと組み入れられた。この編入について、『新撰姓氏録』の逸文においては以下のように記されている。 阿知使主は日本に渡来した後、応神天皇に奏し、「旧居帯方の人民男女はみな才芸があるが、最近は百済と高句麗の間にあって去就に困っているため、これを呼び寄せたい」と進言、天皇は使者を派遣してその人民を勧誘し、帰化させたといい、こうして日本に渡来してきた二十の氏族の中に、高宮村主、忍海村主、佐味村主、桑原村主が含まれている。すなわち、高宮・忍海・佐廉・桑原の四邑の名を冠する村主姓の者がいたのである。 阿智王は阿智使主ともいわれ、中国後漢霊帝の三世孫とか四世孫で、後漢の滅亡に際して朝鮮の帯方郡に移住したと伝えるから、阿智使主に従って来た人たちはまさに漢人であり、高宮・忍海・佐廉・桑原の四邑には確かに漢人たちがいたことがわかる。また阿智使主は倭漢直の祖であるから、村主姓の者たちは倭漢直に統属された諸氏であった。
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