宝貨制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:42 UTC 版)
前漢の政治家だった王莽は、春秋戦国時代の刀貨と円貨をつけた形の契刀・錯刀を貨幣とした。さらには前漢を滅ぼして新を建国し、契刀・錯刀・五銖銭の使用を禁止すると共に、宝貨制として復古調の布貨、少額貨幣の銭貨、高額貨幣の宝貨を発行した。宝貨には、下のようにさまざまな素材が使われた。 金貨:1種類、1斤(約320グラム)=銭10000文。 銀貨:2種類、1流(約128グラム)銀=銭1000文、朱堤銀=銭1580文。 亀貨:甲羅、官有の祭器。4種類:元亀・長さ1尺2寸以上=2160文、公亀・9寸以上=500文、侯亀・7寸以上=300文、子亀・5寸以上=100文。 貝貨:貝殻、5種類。 布貨:鋤形の青銅貨幣、10種類:重量15銖~1両(24銖)、長さ1寸5分~2寸4分、額面100~1000文、それぞれ10段階。 銭貨:重量が12銖以下の円形青銅貨幣、6種類。 しかし、いずれも五銖銭に比べて不便であったため、これらの貨幣の多くはほとんど流通せずに終わり、青銅貨幣(布貨・銭貨)以外の現物は現存せず、ある程度量産され流通したと考えられるものは、基準となる価値を持つ銭貨「小泉直一」とその50倍の名目価値とされた銭貨「大泉五十」、更に布貨のうち「小泉直一」1000枚分の名目価値とされた「大布黄千」ぐらいのものであった。「大布黄千」は貨幣としてだけでなく、通行証やパスポートのように携帯を義務づけられたという。民衆は五銖銭を使い続け、さらには五銖銭を私鋳した。王莽銭はわずか4年で廃止され、新たに貨布と貨泉が発行された。前者は鏟の形状を模した青銅製の重量25銖の布銭で貨布の銘を持つ。後者は円形方孔、重量5銖の銅貨で貨泉の銘を持ち、「大泉五十」と等価とされた。貨泉は使用されたものの、貨泉25枚分の名目価値とされた貨布は忌避された。新政府は名目価値が5倍以上の貨幣を発行して500億ほどの財政収入を得ようとしたが失敗に終わり、穀物や布帛などの物品貨幣が増加した。 新が滅んで後漢が成立すると、光武帝は王莽銭を廃止して五銖銭を復活させた。後漢代に入ると金貨による高額決済は乏しくなり、金貨は主に下賜品や贈答で使われるようになる。後漢の滅亡後は、董卓によって五銖銭が鋳つぶされて董卓小銭という硬貨に改鋳されたが、銘文や研磨などの処理がされていない悪貨だったためインフレーションを招いた。
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