後漢期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 16:07 UTC 版)
王莽が新朝を建てると名目的な価値が素材価値に伴わない貨幣が数多く鋳造され、国内経済は大きく混乱した。25年に後漢が成立したが建国の混乱のため当初は貨幣鋳造を行う余裕がなかった。しかし、40年になりようやく五銖銭鋳造が決定し、翌年より鋳造が開始された。後漢ではその王朝を通して改鋳を行うことはなかったが、時期による精粗があり、特に後漢末に董卓が相国となっていた時期には董卓五銖銭あるいは董卓無文小銭と称される粗悪銅銭が発行された。これは小型で薄く、表面の「五銖」の文字がほとんどあるいは全く見えなくなっているものであった。民間では各種銅銭を打ち抜いて外と内の2つに分割して2枚として使用することが行われ(外側は「綖環(すいがん・えんかん)銭」、内側は「剪輪(せんりん)銭」と呼ぶが、前者は主に董卓五銖銭の原料として使用されていたとも言われる)、外側を削り小型化させたものも使用され(磨辺銭)、私鋳銭も広く流通し、それ以降は五銖銭はもはや1枚単位での通用ではなく、100枚や1000枚を紐で束ねての流通が一般的になった。
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