伝承の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 17:01 UTC 版)
「介子推」も参照 寒食節は介子推の焼死を弔って火を使わず冷たい食事だけで過ごすようになった、という伝説が広く知られている。この伝説では「晋の文公に仕えた介子推は論功行賞に漏れたことをきっかけに母と綿山の山中に隠棲し、文公からの呼び出しに応じなかった。文公は下山させるために綿山に火を放ったが、介子推は母を抱いたまま山中の洞窟で焼死した。憐れんだ文公は、山に廟を建てて介子推を祀るとともに命日から3日間は火を使わずに過ごすよう命じ、これが寒食節になった。」とされる。 しかし、介子推について最も古い記述とみられる先秦の『春秋左氏伝』の僖公二十四年の記述では「介子推が母とともに遁世して亡くなったのち、文公は介子推を探索したが見つけられず、処遇の過ちを後悔して綿上の地を介子推に封じた」とあり、焼死の要素は全くない。これに対し、戦国時代に書かれた『荘子』の雑篇・盗跖第二十九では神話的な描写が強くなり、「介子推は飢えた文公に自分の腿肉を食べさせるなど忠誠を尽くしたが隠遁し、呼び出しに応じず最後は樹木に抱きついたまま燔死した」と焼死という結末が出てきており、これが後代に影響を及ぼしたとみられる。また、戦国末期の『呂氏春秋』の巻十二・季冬紀第十二、および前漢に成立した『史記』の晋世家第九における記述には、春秋左氏伝と同じく焼死のエピソードはない。 一方で、前漢の『新序』の巻七・節士の條は「介子推は論功行賞の不満を歌に仮託し、文公の謝罪を受けたが綿山に隠棲し、呼び出すために山に火をかけられ焚死した」という内容になっており、呂氏春秋にあった歌など各書物の要素を取り入れながら、焚死までの流れを完成させた形となっている。後漢前期に書かれた『新論』には介子推の伝説と寒食の風習が合致したとあり、さらに後漢後期に蔡邕が著した『琴操』龍蛇歌の條では「介子推の焚死後、文公は後悔して禁火令を施行した」というストーリーが描かれ、介子推の焼死と寒食節の関連が明示されている。このため、後漢期に寒食節と介子推の弔いを紐づける見方が一般化したとみられる。 なお、宋代に書かれた『歳時広記』が引用した唐代の『朝野僉載』では、介子推の妹とされる妬女とともに兄妹を祀った妬女廟が并州にあると記録されている。また、2008年には介子推の故郷とされる山西省の介休市綿山で中国清明(寒食)文化祭が催されるなど、伝説は現代でも関心を引いている。
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