皇別氏族と欠史八代
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古代日本の氏(ウヂ)は共通の始祖を持つ政治的集団であり、その出自によって大きく神別、皇別、諸蕃に分類される。史料によって異動があるものの、皇族から出た皇別氏族、とりわけ5-6世紀に既に存在していたことが知られ、後に臣(オミ)姓を持つことになる氏族はそのほとんどが欠史八代の天皇の子孫を始祖としており、欠史八代はこれら臣姓氏族と天皇系譜の結節点の中心となっている。前述の孝元天皇の皇子大彦命は阿倍氏、膳氏など7つの氏の始祖と『日本書紀』に伝えられる(『古事記』では2氏)。皇別氏族の始祖として最も代表的な人物は孝元天皇の孫(または曾孫)である武内宿禰(建内宿禰)で、『古事記』では武内宿禰の7人の子を通じて蘇我氏、巨勢氏、平群氏など27氏の祖とされる。 直木孝次郎は皇別氏族の姓(カバネ)のうち臣(オミ)、君(キミ)、国造(クニノミヤツコ)の3つについて、それぞれの『古事記』系譜上の特徴を次のように分析している。まず臣姓氏族はその大半が欠史八代を出自としており、特に蘇我氏を始め代表的な有力氏族がそれに該当する。それ以外の天皇に出自を持つ臣姓氏族には地方氏族など中堅以下の氏族が目立つ。臣姓に次いで有力な氏族が多く、元は地方の首長に由来するものが多かったであろう君姓氏族は、臣姓氏族とは逆に欠史八代以外の天皇に祖を持つものが全体の7割以上を占める。そしてこれらよりも下級の氏族であった国造姓氏族は皇別のものは神武天皇に出自を持つものが多く、それ以上に天照大御神などに由来を持つ神別氏族であるものが多い。 皇別氏族が姓ごとにこのような特徴を持つことは、それぞれの氏族が天皇家との関係を構築した歴史的背景の違いから来ていると考えられる。元来、各地の自律的な支配者であった君姓氏族の多くは独立を失ってヤマト王権に臣属していく過程で地位を安定させるために天皇(大王)との擬制的な親族関係を構築したと見られる。君姓氏族の過半数は崇神、垂仁、景行、応神の4代いずれかに出自を持っており、欠史八代由来のものが少ない。このことは欠史八代の伝承はこれら地方首長がヤマト王権に服属していった時代にはまだ成立しておらず、一方で崇神天皇ら四代の伝承の成立が比較的早かったことを予想させる。国造姓氏族が神武天皇(の皇子神八井耳命)及び神々を祖としているのは国造クラスの下級氏族では系譜を天皇系譜そのものに接続することが難しかったためであると考えられる。これらに対して、臣姓氏族であった葛城氏や蘇我氏などは古くから天皇(大王)と通婚関係を持っており遠い祖先を持ち出さなくとも単純な事実として天皇(大王)の「同族」であった。また大臣などの地位を得られるような氏族は天皇との通婚関係こそ持っていなくてもその実力によって元来「皇別」を主張する必要性が存在しなかった。しかし、王位継承における血統原理が次第に確立し、特に天皇家の地位が急速に高まって「皇族」が明確化していった大化の改新以降(7世紀後半)、独自の権威を有していたこれらの臣姓氏族もまた天皇家との系譜の接続が必要となっていったものと見られる。このため、7世紀後半には臣姓氏族の系譜もまた明確に皇別氏族として確立していったが、この際にそれぞれの氏族の祖と結びつけられたのが欠史八代の天皇であり、神武天皇と崇神天皇の間の系譜を繋ぐ作業もまた、この頃に行われたと考えられる。
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