皇別摂家の復帰について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 12:01 UTC 版)
「皇位継承問題」の記事における「皇別摂家の復帰について」の解説
詳細は「皇別摂家」を参照 旧皇族以外にも男系の子孫は数多くいるが、その中でも18世紀の関白・鷹司輔平は閑院宮家から鷹司家の養子として臣籍降下しており、現皇室との男系の近さでは、旧皇族よりも近い。河野太郎衆議院議員も皇位継承問題の中で、皇族復帰の検討の必要性を自身のブログで訴えている。 皇別摂家系図 107 後陽成天皇 108 後水尾天皇 近衛信尋 高松宮(有栖川宮)好仁親王 一条昭良 109 明正天皇 110 後光明天皇 111 後西天皇 112 霊元天皇 有栖川宮幸仁親王 113 東山天皇 職仁親王〔有栖川宮家へ〕 吉子内親王 正仁親王 114 中御門天皇 閑院宮直仁親王 115 桜町天皇 典仁親王 (慶光天皇) 倫子女王 鷹司輔平 117 後桜町天皇 116 桃園天皇 美仁親王 119 光格天皇 118 後桃園天皇 120 仁孝天皇 桂宮淑子内親王 121 孝明天皇 和宮親子内親王 122 明治天皇 多くの皇籍復帰賛成論者が皇別摂家を斥ける理由は、以下の2点である。 鷹司輔平など皇別摂家の男系先祖たる皇子(男性皇族)が臣籍降下したのは、約260年前の昔の出来事である。 嗣子のない摂家の養子となったのだから、藤原氏の子孫であって皇別とは言えない。藤原氏および中臣氏は神別であり、藤原氏には皇位継承資格はない。皇族となるには、血筋が皇胤かどうかだけでは駄目で、家柄、家格も必要であるが、摂家や清華家は臣下の家柄である。 徳大寺家系図 東山天皇 中御門天皇 桜町天皇 桃園天皇 後桃園天皇 直仁親王 典仁親王 光格天皇 仁孝天皇 孝明天皇 明治天皇 大正天皇 昭和天皇 明仁 徳仁 鷹司輔平 鷹司政煕 鷹司政通 鷹司輔煕 德大寺公純 德大寺實則 德大寺公弘 德大寺實厚 德大寺公英 徳大寺実啓 係累縁者が多数に上るため、東山天皇以降の歴代天皇および関連する男系男子の人物を記載した。そのため、母方の系図は省略している。 遠祖の閑院宮直仁親王は、東山天皇の第六皇子として生まれ、閑院宮家を興した。 遠祖の鷹司輔平は、閑院宮直仁親王の第四王子として生まれ、鷹司基輝の養子となり、鷹司家を継承した。 六世の祖の德大寺公純は、鷹司輔煕の子として生まれ、德大寺實堅の養子となり、德大寺家を継承した。 高千穂家系図 東山天皇 中御門天皇 桜町天皇 桃園天皇 後桃園天皇 直仁親王 典仁親王 光格天皇 仁孝天皇 孝明天皇 明治天皇 大正天皇 昭和天皇 太上天皇 今上天皇 鷹司輔平 鷹司政煕 鷹司政通 鷹司輔煕 德大寺公純 德大寺實則 德大寺公弘 高千穂宣麿 高千穂俊麿 高千穂有孚 高千穂宣比古 係累縁者が多数に上るため、東山天皇以降の歴代天皇および関連する男系男子の人物を記載した。そのため、母方の系図は省略している。 遠祖の閑院宮直仁親王は、東山天皇の第六皇子として生まれ、閑院宮家を興した。 遠祖の鷹司輔平は、閑院宮直仁親王の第四王子として生まれ、鷹司基輝の養子となり、鷹司家を継承した。 曽祖父の德大寺公純は、鷹司輔煕の子として生まれ、德大寺實堅の養子となり、德大寺家を継承した。 醍醐家系図 後陽成天皇 一条昭良(兼遐) 醍醐冬基1 冬熙2 徳大寺公全 兼潔→経胤3 兼純4 冬香5 輝久6 輝弘7・9 四条隆生 忠順10・13 忠善8 隆謌 隆平 忠敬12 忠告11 忠貞 忠直 隆平 一条実輝 忠重14 格太郎 賢次郎 大児 忠宜15 忠久 忠和 忠久16 忠紀17 忠明 このように、皇室の成員、天皇の属性について、従来の原理原則(男系)を守ったうえで、現皇族の外の者の潜在的な皇位継承権を復活させようというのが、旧皇族復帰論の論旨である。
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