高千穂家
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高千穂家(たかちほけ)は、後伏見天皇の皇子長助法親王の子孫で英彦山神宮宮司を世襲する一族。明治期には華族の男爵家にも列せられた[1]。
歴史
後伏見天皇の皇子長助法親王の子孫であり、豊前国田川郡英彦山大宮司兼座主をつとめた。18代目の権僧正通綱(1824-1872、鷹司政通猶子)は、明治維新に際して勤王の功があったことから、明治元年に僧から復飾して従四位に叙されるとともに英彦山神社大宮司に任ぜられ、翌年、高千穗姓を賜り、高千穂教有と名乗った[2][1]。
その子高千穂有綱が家督を継いだ後の明治6年に特指を以て華族に列せられた[2]。その跡を継いだ宣麿が明治17年7月8日、華族が五爵制になったのに伴い男爵に叙せられた[3]。宣麿は英彦山神社宮司のほか、農商務省農事試験場帝室博物館嘱託、九州帝国大学附属生物学研究所嘱託、貴族院男爵議員なども務めた[2]。
昭和前期に高千穂男爵家の住居は福岡県田川郡彦山村英彦山にあった[2]。
脚注
出典
- ^ a b 森岡浩 2012, p. 290.
- ^ a b c d 華族大鑑刊行会 1990, p. 442.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 340.
参考文献
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。 ISBN 978-4121018366。
- 森岡浩『日本名門・名家大辞典』東京堂出版、2012年(平成24年)。 ISBN 978-4490108217。
高千穂家
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後伏見天皇の皇子長助法親王の子孫で、17代を代々僧家として僧正の位を継ぎ、18代目の権僧正・通綱(1824-1872、鷹司政通の猶子)は、文久3年攘夷を祈願して萩藩奇兵隊に協力して豊前小倉城の襲撃を計画して捕らえられたが、明治維新に際して宗徒を率いて皇事を勤めたことから、明治元年に僧官を返上し、英彦山神社大宮司に任ぜられ、翌年、高千穗姓を賜り、高千穂教有と名乗った。その子・高千穂有綱が家督を継ぎ、同6年に特旨により華族に列せられた。
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