高千穂家とは? わかりやすく解説

高千穂家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/11 08:04 UTC 版)

高千穂家(たかちほけ)は、後伏見天皇の皇子長助法親王の子孫で英彦山神宮宮司を世襲する一族。明治期には華族男爵家にも列せられた[1]

歴史

後伏見天皇の皇子長助法親王の子孫であり、豊前国田川郡英彦山大宮司兼座主をつとめた。18代目の権僧正通綱(1824-1872、鷹司政通猶子)は、明治維新に際して勤王の功があったことから、明治元年に僧から復飾して従四位に叙されるとともに英彦山神社大宮司に任ぜられ、翌年、高千穗姓を賜り、高千穂教有と名乗った[2][1]

その子高千穂有綱が家督を継いだ後の明治6年に特指を以て華族に列せられた[2]。その跡を継いだ宣麿が明治17年7月8日、華族が五爵制になったのに伴い男爵に叙せられた[3]。宣麿は英彦山神社宮司のほか、農商務省農事試験場帝室博物館嘱託、九州帝国大学附属生物学研究所嘱託、貴族院男爵議員なども務めた[2]

昭和前期に高千穂男爵家の住居は福岡県田川郡彦山村英彦山にあった[2]

脚注

出典

  1. ^ a b 森岡浩 2012, p. 290.
  2. ^ a b c d 華族大鑑刊行会 1990, p. 442.
  3. ^ 小田部雄次 2006, p. 340.

参考文献


高千穂家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 09:05 UTC 版)

高千穂宣麿」の記事における「高千穂家」の解説

後伏見天皇皇子長助法親王の子孫で、17代を代々僧家として僧正の位を継ぎ18代目権僧正・通綱(1824-1872鷹司政通猶子)は、文久3年攘夷祈願して萩藩奇兵隊協力して豊前小倉城襲撃計画して捕らえられたが、明治維新に際して宗徒率いて皇事を勤めたことから、明治元年僧官返上し英彦山神社大宮司に任ぜられ、翌年高千穗姓を賜り高千穂教有と名乗ったその子高千穂有綱が家督継ぎ、同6年特旨により華族に列せられた。

※この「高千穂家」の解説は、「高千穂宣麿」の解説の一部です。
「高千穂家」を含む「高千穂宣麿」の記事については、「高千穂宣麿」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「高千穂家」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「高千穂家」の関連用語

高千穂家のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



高千穂家のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの高千穂家 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの高千穂宣麿 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS