皇典講究所からの独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 16:35 UTC 版)
「日本法律学校」の記事における「皇典講究所からの独立」の解説
1892年11月11日、庇護者である山田が死去すると資金難が予想されたため本学は廃校も協議されるようになり、卒業生46名を送り出した1893年7月の第1回卒業式の直前には金子校長が辞職する事態となった。しかし卒業生の運動もあって本学はこの危機を乗り切り、1893年12月には司法省指定学校とされ松岡康毅が第2代校長に就任し、学校経営を安定させることに成功した。そして1897年には学術研究の機関誌として『日本法政新誌』が創刊されるなど、法律学校としての体裁も次第に整備された。これらと並行して1895年~1896年の校地移転、および1896年12月の財団法人改組を通じて皇典講究所からの組織的独立も果たした。
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