皇位継承者問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:19 UTC 版)
1929年(昭和4年)9月30日、第3子で第三皇女孝宮和子内親王を出産する。この時、ラジオ放送が「親王誕生」と誤報したため、人々の落胆は大きくなった。1931年〈昭和6年〉3月7日には第4子・第四皇女順宮厚子内親王を出産した。 他方、1928年(昭和3年)9月28日に秩父宮雍仁親王と松平節子(改名し勢津子)が結婚すると、貞明皇后は次男の秩父宮夫妻に愛着を寄せ、翌年の孝宮誕生の直前に、秩父宮夫妻の結婚1周年の祝いとして男子誕生の期待をかけた贈り物を贈ったり、和歌を詠んだ。 このように昭和初期には、連続して4人の皇女(内親王)が誕生し、未だ皇位継承権を有する皇男子が不在の状況が続いた。元宮内大臣の田中光顕は側室制度(一夫多妻制)の復活を目論みたが、この案は昭和天皇が「人倫に反することはできない」として、これを拒否した。また、聡明で国民的人気もある皇嗣の秩父宮を即位させる動きも存在した。 1930年(昭和5年)12月23日、大日本連合婦人会が結成されると、同会理事長には皇后宮女官長を辞した島津治子が就任し、香淳皇后の誕生日(地久節)である3月6日を「母の日」と定めた。 1932年(昭和7年)に学齢を迎えた第一皇女照宮は、甘やかされて育ったと義弟の高松宮宣仁親王らから批判され、天皇・皇后との妥協案として新築された呉竹寮に移り親元を離れて教育されることとなった。以後、妹宮達も順に呉竹寮に移り、親元を離れることとされた。呉竹寮の一部は戦後、吹上御苑に移築され「林鳥亭」として現存する。 1933年(昭和8年)7月1日、皇后の第5子懐妊が公表された。同日午前11時、天皇は大宮御所を訪問し、皇太后が何人も立ち入れない大正天皇御霊殿で、異例の参拝を行った。そして12月23日午前6時39分、第一皇男子継宮明仁親王を出産した。待望の「皇太子」誕生とあり、文部省は翌月に『皇太子殿下御誕生奉祝歌』を発表。民間でも『皇太子さまお生まれなつた』(作詞:北原白秋、作曲:中山晋平)という奉祝歌が制作され、宮城前の万歳三唱・旗行列・提灯行列・花電車・奉祝会など日本全体が祝賀ムードに包まれた。 1935年(昭和10年)11月28日、第6子・第二皇男子の義宮正仁親王(現:常陸宮)を出産。また、皇室の神格化が推進され、継宮明仁親王に至っては1937年(昭和12年)より東宮仮御所にて養育され、親子でありながら土日以外には面会することさえできなくなった。母の良子皇后は明仁親王のために好物の豆腐料理を手ずから用意していたが、親王が皇后の手料理を口にすることはなかった。1939年(昭和14年)3月2日、第7子(末子)・第五皇女の清宮貴子内親王を出産。 『天津日嗣の御子御降誕』と皇太子明仁親王誕生を報じる富山日報(昭和8年12月24日) 雛祭りを祝う皇后と皇女たち(1940年3月撮影) 日米開戦前日の昭和天皇一家(1941年12月7日撮影)
※この「皇位継承者問題」の解説は、「香淳皇后」の解説の一部です。
「皇位継承者問題」を含む「香淳皇后」の記事については、「香淳皇后」の概要を参照ください。
- 皇位継承者問題のページへのリンク