皇位継承戦争の勃発
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「アウラングゼーブ」の記事における「皇位継承戦争の勃発」の解説
1657年9月、父帝シャー・ジャハーンが病床に臥すと、帝国内において混乱が起こり、新たなる動乱が始まった。アウラングゼーブを含む息子ら4人による「勝つか死ぬか、王になるか滅びるか、二つに一つ」の皇位継承戦争である。 皇位継承戦争が幕を開けるや否や、長兄のダーラー・シコーはデリーとアーグラで、次兄のシャー・シュジャーはベンガルで、弟のムラード・バフシュはグジャラートでそれぞれ兵を集めた。だが、アウラングゼーブはその性格から慎重に動き、情勢を見たうえで、ミール・ジュムラーとの合流を優先した。 ミール・ジュムラーはカリヤーニーをいまだ包囲し続けていたが、アウラングゼーブはそこに長男スルターンを送り、ダウラターバードに来て合流するように説得を行った。だが、ミール・ジュムラーはアーグラで家族が人質にとられているため、合流して援助することも、味方だと公言することもできないと言い、スルターンは仕方なくダウラターバードへと戻った。それでも、アウラングゼーブはめげずに今度は次男ムアッザムを送り、ミール・ジュムラーの説得に成功した。 その後すぐ、ミール・ジュムラーは籠城軍に更なる攻撃をかけて和議に応じさせ、ムアッザムとともにアウラングゼーブのいるダウラターバードへと向かった。アウラングゼーブは大変喜び、ミール・ジュムラーを「バーバー」(父上)、「バーバージー」(父君)とさえ呼んだ。また、アウラングゼーブはその家族が殺害されぬよう一計を案じて、ミール・ジュムラーを拘束したように見せかけてともに行軍することを提案し、ミール・ジュムラーもこれを了承した。 アウラングゼーブはミール・ジュムラーとの合流に成功してダウラターバードを出たのち、ムラード・バフシュにシンド、パンジャーブ、カシミール、アフガニスタンを与える約束で同盟を結んだ。ムラード・バフシュはグジャラートのアフマダーバードを出て、アウラングゼーブと合流し、兄ダーラー・シコーに対抗しうるかなりの大軍団が出来た。
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皇位継承戦争の勃発
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「ダーラー・シコー」の記事における「皇位継承戦争の勃発」の解説
1657年9月、父帝シャー・ジャハーンが重病となり、ダーラー・シコーは4人の弟シャー・シュジャー、アウラングゼーブ、ムラード・バフシュと皇位をめぐって争わなくてはならなくなった。シャー・ジャハーンが存命中である以上、皇位継承戦争は彼が死亡してから起こるはずなのだが、彼の病が回復の見込みがない死病だという噂が立ったということも起因していた。 そして、ダーラー・シコーが皇太子であったとしてもそのようなことは関係なかった。王位継承におけるムガル帝国とほかのインドの王朝における決定的な違いは、後継者が決められていたとしても、実力のある人物が強引に王位を奪うことが出来たところにあった。 ダーラー・シコーは皇太子であったが、あくまでシャー・ジャハーンを尊重し、他の兄弟が皇帝を自称したのちも皇帝を名乗ることはなかった。そのためか、12月30日に彼は弟シャー・シュジャーの保持していたビハール太守の地位に任命されている。 また、ダーラー・シコーはデリーおよびアーグラとその周辺を支配下に入れていたことで、ほかの兄弟よりも財力があり、軍も強力であった。そのうえ、彼はアンベール王ジャイ・シングやマールワール王ジャスワント・シングなど強力なラージプートの王を味方につけていた。
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