皇位継承戦争において
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 06:11 UTC 版)
「ムラード・バフシュ」の記事における「皇位継承戦争において」の解説
1657年9月、父帝シャー・ジャハーンが重病で倒れると、ムラード・バフシュは皇位をめぐって三人の兄ダーラー・シコー、シャー・シュジャー、アウラングゼーブと争うこととなった。 その際、ムラード・バフシュはグジャラートのスーラトを攻め、その町の長官を降伏させ、スーラト城を略奪をした。その際、オランダ人から地雷を爆発させるという新発明を教わり、その技術を以てスーラトの城壁を爆破することに成功したという。 ムラード・バフシュがスーラト略奪によりある程度の金品を得たことは事実であり、彼に味方した人物に金品を分け与え、兵士らには給与を与え、さらに力をつけたという。また、彼が莫大な財宝を発見したという噂もインド中へと広まった。 とはいえ、フランスの歴史家フランソワ・ベルニエは、彼がうわさに聞いて想像していたほどの多額の金を発見できなかった、と語っている。金の行方に関しては、もともとそこにそんな大金はなかったか、町の長官が横領していたのだという。 そして、11月30日にムラード・バフシュは父帝重病を理由に、アフマダーバードで皇帝を宣言した。のち、彼は兄アウラングゼーブから度々打診されていたシンド、パンジャーブ、カシミール、アフガニスタンを分け与えることによる同盟を受け入れた。もとより、末弟のムラード・バフシュはあまり裕福でなく、勢力も小さかった。 1658年2月、病気から快復した父帝シャー・ジャハーンは討伐軍を送ったが、アウラングゼーブとムラード・バフシュの連合軍はこれを破った。 4月15日、アウラングゼーブとムラード・バフシュの連合軍は、兄ダーラー・シコーの派遣したジャスワント・シングとカーシム・ハーン率いる軍とウッジャイン近郊で戦闘を交えた(ダルマートプルの戦い)。両軍はナルマダー川を挟んで対峙したが、渡河をめぐる攻防では、川岸にはよじ登るのも大変な高所があり、川床には邪魔な岩があり、連合軍は攻めあぐねていた。このとき、ムラード・バフシュは大胆にも自ら川に飛び込み、その中を剛勇をふるって進み、彼の軍もその後に続いた。カーシム・ハーンはこれに驚いて逃げ、ジャスワント・シングも手勢のラージプート兵を失って脱出し、この日の戦いは連合軍の勝利に終わった。 6月8日、アウラングゼーブとムラード・バフシュの連合軍は、兄ダーラー・シコーとアーグラ近郊のサムーガルで戦闘を交えた(サムーガルの戦い)。ムラード・バフシュは戦闘中、ラージプートの武将ラーム・シング・ラートールに傷を負わされ、彼の乗っている象の腹帯を切られ始めた。だが、彼はラーム・シング・ラートールやその配下のラージプートらに激しく攻められながらも、一歩も引かずにひるまずに戦った。そして、同じ象に乗っていた息子のイザード・バフシュを庇いながらも、ラーム・シング・ラートールに一矢放ち殺害した。 その後、ラーム・シング・ラートールの兵士らが怒り狂い襲ってきたこともあり、ムラード・バフシュは傷の手当てのためにいったんその場を離れた。一方、戦いの方はダーラー・シュコーの軍の方で裏切りがあったために、連合軍の有利に傾き、この日の戦いも勝利に終わった。
※この「皇位継承戦争において」の解説は、「ムラード・バフシュ」の解説の一部です。
「皇位継承戦争において」を含む「ムラード・バフシュ」の記事については、「ムラード・バフシュ」の概要を参照ください。
皇位継承戦争において
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/16 13:56 UTC 版)
「ヌール・ジャハーン」の記事における「皇位継承戦争において」の解説
とはいえ、皇帝ジャハーンギールがこのような状態であったので帝国の国政は乱れ、ジャハーンギールの長男フスロー、次男のパルヴィーズ、三男のフッラム、四男のシャフリヤールの間で帝位継承をめぐる争いが発生した。 1619年、ヌール・ジャハーンは先夫シェール・アフガーン・ハーンとの間の一女ラードリー・ベーグムをシャフリヤールに嫁がせた。もともと、娘はフッラムに嫁がせるはずであったが、彼がこれを拒絶したため、シャフリヤールに嫁がせることとなった。 だが、ヌール・ジャハーンがシャフリヤールに娘を嫁がせたことで、他の皇子は後継者の地位を危うくされたと思い、宮廷に緊張が走った。特にフッラムは事実上の最高権力者であるヌール・ジャハーンと対立したことを危機と感じ、対決姿勢を明確にした。デカン遠征を命じられた際、フッラムはフスローを引き渡さなければいかないと言い、1621年に華々しい勝利をおさめると、フスローを殺害してしまった。 1622年、サファヴィー朝がカンダハールを占領すると、シャフリヤールにその奪還の命令が下され、同時にフッラムの領地の地代の一部が彼に与えられることになった。フッラムはこれに対して反乱を起こしたが、帝国の派遣した武将マハーバト・ハーンの軍に敗れ、デカンにとどまることを要求された。 その後、事態は平穏を迎えたが、ヌール・ジャハーンはフッラムを破ったマハーバト・ハーンを警戒し、彼はパルヴィーズを支持していたため、その排除を計画した。1626年にヌール・ジャハーンはマハーバト・ハーンにベンガルに戻るかあるいは宮廷に出仕するかを命じ、彼は後者を選んだ。だが、ラージプートの兵4000を連れていたマハーバト・ハーンは皇帝とヌール・ジャハーンの身柄を捕えた。 しかし、ヌール・ジャハーンは自身の説得術で事態をうまく切り抜け、マハーバト・ハーンを自身の軍門に加えた。その後すぐ、パルヴィーズが死亡し、皇位継承者はフッラムとヌール・ジャハーンが支持していたシャフリヤールの2人となった。フッラムはヌール・ジャハーンに味方するマハーバト・ハーンを打倒するために兵を集めた。 ヌール・ジャハーンはフッラムとマハーバト・ハーンの争いを見て、二人ともの排除を計画していた。そうしたなか、皇帝ジャハーンギールが突然死亡し、ヌール・ジャハーンの権力に陰りがさした。
※この「皇位継承戦争において」の解説は、「ヌール・ジャハーン」の解説の一部です。
「皇位継承戦争において」を含む「ヌール・ジャハーン」の記事については、「ヌール・ジャハーン」の概要を参照ください。
皇位継承戦争において
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 14:26 UTC 版)
「ジャスワント・シング」の記事における「皇位継承戦争において」の解説
1657年9月、皇帝シャー・ジャハーンが重病となり、四人の皇子が皇位継承戦争を起こすと、ジャスワント・シングは友人であったダーラー・シコーに味方した。ジャスワント・シングはアンベール王ジャイ・シングに引けを取らぬほどの勇猛な武将として知られ、彼ともう一人の武将カーシム・ハーンはダーラー・シコーも軍司令官を任された。 1658年4月15日、ジャスワント・シングとカーシム・ハーンはダーラー・シコーの命により、アウラングゼーブとムラード・バフシュの軍勢とウッジャイン近郊で戦闘を交えた(ダルマートプルの戦い)。戦闘はジャスワント・シングとその軍が勇猛に戦ったため、緒戦はダーラー・シコー軍が有利だったが、ムラード・バフシュに怯えたカーシム・ハーンが逃げたため、彼に一気に負担がかかった。 その結果、ジャスワント・シングの率いる軍勢は敗れ、手勢のラージプートらはほとんどが死亡し、命からがら戦場を逃げざるを得なかった。彼の受けた損害はあまりにも大きかったため、アーグラに戻ることができず、自身の領地であるマールワールへと逃げなければならなかった。彼が戦場に連れてきた7,000人あるいは8,000人の軍勢が王国へと戻った時には500人から600人になっていた、とフランソワ・ベルニエは述べている。 ところが、ジャスワント・シングが首都ジョードプルに戻ったとき、その妃が彼の入城を拒否するという思わぬ事態が発生した。この妃はラージプートの中でも誇り高きメーワール王国の一族の娘で、自分の夫が戦場で負けてきたという事実が受け入れられなかった。 ジャスワント・シングの妃は「城門を閉じよ、その破廉恥漢を中へと入れてはならない」と命じ、ジャスワント・シングをねぎらうどころか締め出した。さらに妃は、「その男は私の夫ではない、会おうとは思わぬ。マハーラーナーの婿はそのような卑しい心を持つはずがない。これほどの名門の人となったからには、その美風を見習う務めがあることを、よく思い出してもらわなければならない。つまるところ、勝か死ぬか、どちらかにすべきだ」とまで言うありさまだった。 だが、ジャスワント・シングの妃の気持ちはすぐに変わり、薪を持ってくるように命じ、「わが身を焼いて死にたい。私は騙されているのだ。夫は死んだに違いない。そうでないはずがない」と言う。そしてしばらくすると、妃はまた怒りだして夫をののしり始め、会おうとすらしなかった。 こうした状況が8日か9日続いたところで、ようやく妃の母親がやってきて、「ラージャ(ジャスワント・シング)は元気を回復すれば、すぐさま軍勢を立て直し、アウラングゼーブと戦って、名誉の回復を図るだろう」と説得にあたった。 結局、ジャスワント・シングはこうした混乱から軍勢を立て直せず、ジョードプルに引き籠っていた。ダーラー・シコーは何通もの手紙を送り、軍資金も提供した。ジャスワント・シングはアジュメール近郊までのろのろと進軍し、提供された軍資金で軍を集め、メーワール王国の君主が到着するのを待った。だが、メーワール王国はアウラングゼーブが提示した条件ですでに合意していたため、味方にはならなかった。 同年5月29日、ダーラー・シコーとアウラングゼーブ・ムラード・バフシュ連合軍との間でサムーガルの戦いが勃発したが、ジャスワント・シングは参加することが出来ず、戦闘後にアウラングゼーブと和議を結んだ。また、シャー・ジャハーンはアーグラ城に幽閉された。 だが、1659年1月にジャスワント・シングはアウラングゼーブがシャー・シュジャーとカジュハで戦っているとき(カジュハの戦い)にその後衛の軍を襲って物資を略奪したりするなど、ダーラー・シコーをひそかに支援していた。だが、アウラングゼーブが策を使ってシャー・シュジャーを破ると、ジャスワント・シングは自分の形成が不利であることを悟り、略奪品のみに満足して急ぎアーグラへと引き上げた。 ジャスワント・シングがアーグラに到着すると、町は騒然となった。アーグラの町ではシャー・シュジャーが勝利し、アウラングゼーブとミール・ジュムラーは捕虜となったという噂が立っていたのである。また、ジャスワント・シングが裏切っているとの噂もあり、市場に現れた彼を見て、アーグラの長官であったシャーイスタ・ハーンは毒を飲んで自殺しようとし、女官らに止められた。 ジャスワント・シングは何かを企てるようなこともしなかったので、あえて長居せずすぐに所領に引き上げ、アーグラには少し立ち寄った程度だった。フランソワ・ベルニエは、ジャスワント・シングがアーグラに暫く留まってシャー・ジャハーンの解放ために大胆な脅しや約束を使うなど精力的に動いていれば、シャー・ジャハーンは解放されたかもしれない、と述べている。 また、ジャスワント・シングは所領に戻ったのち強力な軍隊を仕立て上げ、ダーラー・シコーに「できるだけ早くアーグラに向かうように、自分は途中で合流する」、という旨を送った。しかし、その約束は実行されなかった。ジャスワント・シングはジャイ・シングから「落ちぶれたダーラー・シコーに味方するよりは、アウラングゼーブに味方した方がよい。また、アウラングゼーブが決して容赦しないだろう」「ラージプート同士の血を流すべきではない。ヒンドゥー全員、異教徒全体にかかわる問題であり、異教徒全体が危険にさらされる」と脅迫し、また「ダーラー・シコーの問題に関知しないなら、アウラングゼーブは赦しを与え、私が保証する」といった内容の手紙を何度も受けた。 結局、ジャスワント・シングは所領に退去し、アウラングゼーブに帰順するところとなった。その後、ダーラー・シコーは捕えられ、同年8月30日にデリーで処刑された。1660年にはシャー・シュジャーもアラカン王国へと逃げ、ムラード・バフシュも処刑され、皇位継承戦争は事実上終結した。
※この「皇位継承戦争において」の解説は、「ジャスワント・シング」の解説の一部です。
「皇位継承戦争において」を含む「ジャスワント・シング」の記事については、「ジャスワント・シング」の概要を参照ください。
- 皇位継承戦争においてのページへのリンク