梶三右ェ門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 17:19 UTC 版)
「来迎寺 (新発田市)」の記事における「梶三右ェ門」の解説
新発田藩4代目藩主溝口重雄公の若年時代は、行状に問題があり、家臣達は苦慮していた。しかしながら梶三右ェ門は臆せず、重雄公に諫言をしていた。再三にわたり諫言したことにより、重雄公は怒り、梶三右ェ門を城下より三里以内に住んではならぬと放逐した。延宝9年10月5日、三右ェ門は死をもって殿に非礼を詫びようと、菩提寺である来迎寺の墓前にて切腹しようとしたが、介錯を頼んだ下僕が恐ろしくなって逃げてしまったため、やむなく自らの咽喉ぶえを切って果てた。その後、城中奥殿に不可解な事が起きるため、重雄公は放ってもおけず、三右ェ門の菩提を弔うため、虎林庵という庵を建て、冥福を祈った。裏山頂上にある、墓地の石像観音の背に、延宝九年法学了開居士、一心善超居士と彫ってある戒名の一つが三右ェ門の墓といわれている。
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